第6回 とうとう会得した自由が通底している

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

Prone to Leanといえば、アラバマ州マッスル・ショールズのドニー・フリッツによる1974年の名盤だが、その言葉の意味については彼の短いドキュメンタリーで、友人のダン・ペンが「やつは、エネルギッシュなタイプではなくてね、走ったりしてるのは見たことがない、いつもどこかによりかかってるんだ、まあここらのやつらはみんなそうなんだが」と語るのを最近見返すまで、無自覚でいた。プローン・トゥ・リーン、すぐになにかにもたれかかってしまうこと。椅子があればできるだけ深く腰を下ろし、柱があれば、そこに全幅の信頼とともに寄りかかり、ソファがあればごろんと横に、なにもなく無為に突っ立っていないといけないときは、せめて片足に重心を寄せて、腕でも組んで。

ドニー・フリッツが2019年に亡くなった折に発表されたニューヨークタイムズ誌の追悼記事によると、Prone to Leanというタイトルは、あの時代のアメリカの音楽的な潮流を決定的にプロデュースした、その張本人であるジェリー・ウェクスラーがドニーに授けた「the Alabama Leaning Man」という「謎めいた」ニックネームからとられているという――一方、ドニー・フリッツはウェクスラーについて別のインタビューで、彼をゴッドファーザーのような存在だと語っているが。そこからニューヨークタイムズ誌の記事は、より「正鵠を得た」、そして「適切な」ドニー・フリッツのあだ名として、彼の盟友だったクリス・クリストファーソンが同じアルバムのライナーに書いた「ファンキー・ドニー・フリッツ」という言葉を紹介して追悼を小粋に締めくくるのだが、私にとっては、少なくともその意味を素直にとるなら、アラバマ・リーニング・マンというのは、あのどこか気怠そうなドニー・フリッツの正鵠を得た名前のように思う。私が見たドニー・フリッツは、やはり椅子に深々と、まるで根が生えたみたいに腰掛けていたから。

 

ドニー・フリッツのライブを百々子と見にいったのは、2015年11月、ニューヨークにいた頃だった。ユニオン・スクエアに程近いジョーズ・パブがその会場。ちなみ私はここを、ハリケーンカトリーナで自宅とスタジオを失ったアラン・トゥーサンが仮のホームとして、定期公演を行ったクラブとして知っていた。その公演の模様は、のちにライブ盤として発表されている。人前で演奏することに喜びを見出したトゥーサンの姿が記録された好盤だ。ジョーズ・パブはライブ会場というよりは小洒落たレストランのような雰囲気で、人が詰め込んで肩を寄せ合うということはなく、代わりにパズルみたいに並んだ丸テーブルに観衆は腰掛け、お酒を片手にライブが始まるのを待っている。私の身体はアルコールを受け付けないので、コーラを。百々子はビール。ついでにフレンチフライも。コリアンタウンで買った安物のライスクッカーと、地下鉄を乗り継いでブルックリンのIKEAから運んできた白い本棚がおかれた、ユニオン神学校の寮の一人部屋にふたりで住んでいた当時の私たちにすれば、それだけで存外な贅沢だった。

ドニー・フリッツはOh My Goodnessというアルバムを、その年の10月に出したばかりだった。72歳のドニーの、見据えるべき輝かしい未来よりも、振り返るべき悲哀と喪失、メランコリーに満ちた過去の方に侵食されたような枯れた声と、ウーリッツァーのエレクトロニックピアノの丸みを帯びた音色、そしてさりげなく曲を下支えするニューオリンズを偲ばせるようなホーンの悠長な音を基調とした親密な秀作。アマンダ・マクブルームが俳優だった父親に捧げた「エロール・フリン」を、荘厳なオペラから市井のワルツへと歌い変えたカバーから始まって、スプーナー・オールダムとの共作まで捨て曲なしの名作で、レコード盤に針を落とせば、もうすぐ3歳になろうという娘は、いつもならレコードをかけると肩車をねだるのだが、このアルバムではたどたどしいステップを左右に刻んでゆらゆらと踊り出す。

私がこのFAMEスタジオのあるフローレンス――ブルーズの父とも言われるW・C・ハンディもここで生まれた――で生まれ育ったドニー・フリッツを知ったのは、このアルバムが最初だった。楽曲の提供やキーボーディストなど裏方としての活動が多く、決してヒット作に恵まれたわけではない彼が残した5枚のスタジオアルバムのうち、最後から2番目の作品。ウーリッツァーの最初の一音を聴いた瞬間、私はこのアルバムを長く聴くことになるだろうと直感し、そのままアルバムを聴き通したあと、自分の直感が誤りではなかったことを知った。

そういえばあの年の末、ピーター・バラカンのラジオで年間ベストアルバムを募るという恒例の企画があって、このドニー・フリッツのアルバムをリクエストしたことがあった。それほどこのアルバムが好きだった。「海外在住の榎本空さん」とあのバラカンさんの声で名前が呼ばれたときは――そしてその放送のあとも、同じような調子で私のリクエストを読み上げてくれることが何度かあったのだが、そのたびに――、なんだか自分の存在が掬い上げられたような気持ちになったことを覚えている。外国での生活が長くなり、日本には背を向け、かといってアメリカに腰を据えるつもりもなく、学ぶという言葉だけを頼りに、いや言い訳に、ひとつの場所からまた次の場所へと移ろっていた私にとっては、ラジオで呼ばれる自分の名前が大海に浮かぶ浮標のようなものだったのかもしれない。

 

Oh My Goodnessのレコードは、ノースカロライナにいた頃に手に入れた。ネットショップで購入し、気づいたときには、もうずっとここにいましたというような顔をしてレコードの棚に収まっていたから、それをいつ、どんな状況で買うことにしたのか、あまり覚えていない。合格すると判断されるまでは受けることのできない博士課程の試験――コンプ(Comp)といって、この試験に合格すれば晴れてABD、自分の論文に専念できる、あのときを思い出すと、今でも細い崖の上に片足で立っているような気持ちになるのだが――を受けることが決まり、にわかに現実味を帯びてきた帰国を前に、アメリカで買えるレコードは今のうちに買っておこうと、買ったような記憶があるような気もする。ただそれは、チャールズ・ロイドやイナラ・ジョージ、カレン・ダルトンのレコードであったとしてもおかしくないし、もしかしたらキティ・デイジー・ルイスのデビューアルバムだったかもしれない。自分が蒐集してきたものに、そのような記憶が欠如しているということは、不思議に思える。人差し指の操作ひとつであまりにも呆気なく所有物となってしまったレコードは、記憶を奪うのだろうか。ベンヤミンが書くような蒐集家の「分散に抵抗する戦い」――レコード屋でレコードを買うことが分散への抵抗でないのだとしたら、なんなのだろう――を引き受けることも、それを手に入れたときの「霊感に打たれたかのよう」な心地を経ることもなく、玄関先まで誰かに運んでもらったレコードの箱をまるで我が手柄のように引きちぎったことの代償が、記憶の喪失だったのだろうか。

ただ、レコードプレイヤーの上をあの吸い込まれるようなテンポでゆるゆると周り続けるOh My Goodnessのレコード盤を見ていたときに、こう思ったことは覚えている。つまりこのアルバムを定義づけているのはノスタルジアやメランコリーではなく、ようやく自分の思い描いていた音を表現できたことの喜びではないのかと。もしかしたら、ドニー・フリッツはずっとこんなアルバムを作りたいと願いつつ、そうできなかったのではないか。老成したものだけに可能な、おっちゃんのリズムならぬおじいちゃんのリズム。それをとうとう会得したという自由が、このアルバムには通底しているのではないか。それともそれは私の思い違いだったのだろうか。結局のところ私の好きなアーティストのほとんどは、私が彼らを知る頃にはその晩年にいるか、もしくは亡くなっていて――忌野清志郎を知ったのは彼が亡くなる数年前だったし、ジェリー・ガルシアを知ったときには、すでに彼が亡くなって久しかった――、私はただ彼らの最期の姿に自分の理想を重ね合わせただけかもしれない。ドニー・フリッツは2019年に亡くなった。

         さて、名声は束の間で、星々は落ちる

         あそこに立つのが、芸術家の仕事

         運は誰かに口づけすれば、他の人の前を通り過ぎる

         失望とバーボンは心に重い

         心に重い

         さて、わたしはリシーダの家にひとり

         月明かりの下、レイトショーを見る

         画面に、どうしてか、父さんの顔が

         切なくて笑ってしまう、父さんより歳とったなんて

         父さんより歳とったなんて

「エロール・フリン」

ジョーズ・パブの扇形のステージには、ウーリッツァーのピアノと、その隣にOh My Goodnessをプロデュースしたジョン・ポール・ホワイトのためのスツールがひとつ置かれている。ふたり編成のライブだった。定刻になってもふたりは舞台に登場せず、代わりにプロジェクターがするすると降りてきて、映像が映し出された。ドニー・フリッツのドキュメンタリー映像だった。私はしばらくそれに見入っていたのだが、隣の百々子が肩を突き、うしろを見ろというので振り返る。すると、そこにはキャップを被ったドニー・フリッツがいた。バーボンだか、ビールだかを啜りながら、まるで偶然ジョーズ・パブに居合わせた観衆のひとりみたいに、これから始まるショーに自分が出演することを忘れているみたいに、でもプロジェクターに映る顔にしわの入ったウーリッツァー弾きの姿をどこか満足げに見つめながら、木製の黒いチェアに深く、深く腰を沈めて。

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。

第5回 あれからジャズを聴いている理由──”Seven Steps to Heaven” Feat. Herbie Hancock

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

車を売ったのは、日本に帰国する2日前だった。

知人から譲り受けた走行距離20万マイルほどの2005年型のアコードは、ノースカロライナで4年間酷使している間にすっかりボロボロになっていた。カロライナの日差しと、時折訪れるハリケーンの雨風と、常にエンジンの精一杯を求められるアメリカの公道と、そして何にも増して情け容赦ない時間の流れそのものによって、車はリー・ドーシーのMy Old Carよろしく、スクラップ寸前だった。

バッテリーが使い物にならなくなったのは、いつだっただろうか。ある日、郊外にある韓国系のスーパーのHマートで、納豆や冷凍うどん、薄切りの豚バラ肉やネギなど、故郷の味を、少なくともノースカロライナで揃うそれに一番近いものを買い込んだあとに、帰り道に立ち寄った先のガソリンスタンドでエンジンがかからなくなった。その前兆ならあった。同じ日の朝も、バッテリーが上がってしまい、慌てて友人の車から電力を分けてもらっていたから。Hマートの帰りにバッテリーを交換しようと百々子と話していたが、車屋にたどり着く前に、再びバッテリーが上がってしまったのだ。人気のないガソリンスタンドで、鉄の塊と化した車内に取り残された私たち。途方に暮れていると、助けてくれたのは、ツーリング途中なのか、映画の中からそのまま出てきたようなハーレー乗りの白人のおじ様、二人だった。皆、スキンヘッド、黒いライダースーツで身を固めている。どうしたんだ? バッテリーが上がったようで。それだけ言うと彼らは全てを了解したように、一人はブースターケーブルを探しにガソリンスタンドの中へ、一人はボンネットを点検し、ちょっと見せてみろと、私と運転席を変わってアクセルをふかしはじめた。その一連の所作は惚れ惚れしてしまうほど無駄がなくて、しばらくすると、車は思い出したように鈍いエンジン音を立てた。おじ様たちは誇らしげに、バッテリーはもう変えた方がいい、ケーブルを貸してくれたスタンドの店員さんにはお礼しておけよと言い残して、ハーレーにまたがって颯爽と去っていった。私たちはその足で車屋に向かい、そこだけつぎはぎを貼り付けたような真新しいバッテリーを、オンボロの車に取り付けた。

車の天井生地が垂れてきていることに気がついたのは、帰国まであと2ヶ月を切った頃。しばらくは何とか誤魔化して乗っていたが、次第にだらっと垂れた布が運転席の視界をも遮るようになり、ガムテープで留めてみたり、洗濯バサミで挟んでみたりとさまざまな試行錯誤の末、最終的には百々子が押しピンで応急処置を施した。そういえばニューヨークに住んでいた頃も、アパートを引き払う直前になって寝室の天井のパネルが何枚か半分外れ、部屋がコンクリートの粉末で雪景色になったことがあった。どこかを離れる頃になって落ちてはいけないものが落ちてくるというのは、もはや定番と言ってもいいかもしれない。そんな事象の意図を汲んでしまうのは人間だけだろうが、ハンモックのようにだらしなく垂れ下がった車の天井は、チャペルヒルでの生活から引導を渡されたようでもあり、私たちは、はいわかりましたと、少しの未練とともに、その地を去る準備を進めていたのだった。

いずれにせよ、車はそんな状態だったから人に譲ることもできず、私たちはそれを、隣町のラーリーのディーラーで売ることにした。

 

車は呆気なく売れていった。車といえば、アメリカの横柄な官僚主義を煮詰めたようなDMV(車両管理局)での嫌な経験――つまりそれは、端的に言って、何時間も、自分の番が本当にやってくるかどうかあやふやなまま、同じように確信を持たない人々の長い列の後ろで待たされることを意味する――を思い出し、その日1日を潰す覚悟でいたが、どうやら資本主義の速度がお役所仕事の横柄に勝利を収めたらしい。ディーラーに言われるがままに書類にサインをいくつか記入しただけで、車は私の手から離れていった。

さて問題は帰り道である。と言っても、何か選択肢があるわけではない。車がなくなった今、家までの30マイル、私を運んでくれるのはタクシーだけだった。そこで私は配車サービスで車を呼んだ。

車屋の駐車場に滑り込んできたのは黒のSUVで、20代後半くらいの黒人の若者が運転している。黒いパーカーに、ダボっとしたズボンというカジュアルな身のこなしで、普段私が教えていた学部生のように見えなくもない。乗車するなり、私は質問の嵐に見舞われた。

なんでここに? 車でも売ったの? それとも修理?

車を売ったんだ。私は短く答える。

へぇ、いくらだった?

私はまた短く、金額を伝えた。

そんな安かったの! 俺に一声かけてくれれば、友達のディーラーを紹介したのに。あいつならもっといい値段で買ってくれるよ。引き返そうか? 大手のディーラーは買い叩くからなぁ。悪どい商売だ。本当にいいのか? 倍の値段で売れるぞ。

ボロボロの車だったから、そもそも売れるとは期待してなかった。お金を払って引き取ってもらわなきゃいけないかと思ってたくらい。売れただけで御の字だよ。私は彼が本気なのか、冗談で言っているのかわからないまま、答えた。質問は続く。

それで、車は買い替えるのか?

いや、もう帰国でね。明後日には発つんだ。

どこに?

日本だよ。

日本か。行ったことはないな。

遠いところだよ。

じゃあ、こっちには駐在できたってこと?

まさか。駐在の人はもっといい車に乗ってるよ。博士課程。日本の研究をしてるんだ。

なんでまたわざわざアメリカで日本の研究を?

まあ、巡り合わせでね。これといった理由はない。

それをきちんと説明しようと思えば、とても家までの30マイルでは足りない。そもそも台湾、アメリカで10年近く生活をした末に、幼少期を過ごした沖縄の離島へフィールドワークに行く理由など、いくら説明を尽くしてもわかってもらえるか分からない。その間にも社交的なのか、ただの詮索好きなのか、それともその両方なのか、運転席の口まめな彼はとめどなく話し続けている。日本で知り合いが働いていること。それが東京でないことは確かだが、日本のどこだか思い出せないこと。パンデミックで配車サービスの売り上げが落ちたこと。それでもフードデリバリーでなんとか持ち直していたが、最近のガソリンの高騰で商売にならないこと。

途中から私は上の空だった。明後日には帰国する。考えなければならないことはたくさんあったし、思い出すことはそれ以上にあった。窓の外の景色を黙って見ていたかった。そうして、あのハイウェイの角でまだ赤ん坊だった長女が大泣きしたことや、これから帰る、ベッドのマットレスとソファ、洗濯機と乾燥機以外は、大きなスーツケースが開け放たれているだけの、空っぽの部屋のこと、どこかに帰る当てもないくせに、日本に帰りたい、帰りたいと無為に過ごしてしまったアメリカでの最後の数年間のこと、そして明後日、ようやく待ち望んだはずの帰国を前にして、本当はそこまで帰りたいわけではないのではないか、自分が求めていたのは帰ることではなく、ただ、ここではないどこかに行きたいだけだったのではないかと疑うような気持ちになったこと、そんな思い浮かんでくるあれこれを、車窓に消えていくにまかせていたかった。

車はチャペルヒルの家に近づいていた。

今日のこれからの予定は? 運転手からの何度目かの質問に、私は車内に引き戻される。

部屋の片付け。ゴミも捨てなきゃ。あと、友達の家族が来てるから、一緒にハンバーガーでも食べるかも。アルズバーガー、美味しいから。テイクアウトしようかな。

長女のプリスクールの友人の日本人家族で、最後まで捨てられずに残った調味料や食材、雑貨を全てもらっていってくれた。

このあと予定はあるの? 誰か乗せるの? 私が質問する番だった。

コンサートのチケットもらったから、夜に行こうかと思って。なんて名前だっけな。知らない人だった。えっと、あ、ハービー・ハンコックだ。知ってる? 動画で見たんだけど、ピアノ弾く人。まあまあ良さそうだから、行ってみるよ。途中で眠くなったら、帰ればいいし。

ハービー・ハンコック! レジェンドだよ! きっと行った方がいい!

こうしてこの日一番の声が出た頃、車は大学寮のロータリーに滑り込んだ。

 

沖縄に来てからも、ふとした瞬間に、あの名も知らぬアーティストのコンサートを聴きに行った黒人青年との車内を思い出してしまう。彼のその後を想像してしまう。果たしてハービー・ハンコックはどんな曲を演奏したのだろうか、青年はライブを楽しめたんだろうか、途中で帰らなかっただろうか、彼に会うことがあったら、今度は私が彼を質問攻めにしてしまうだろう。もっとも、私にしたって、特段ハービー・ハンコックに詳しいわけでも、彼の音楽の忠実なリスナーというわけでもなかった。名前以上のことで知っていたのは、彼がマイルス・デイヴィスのグループに在籍していたことや――マイルスは最大の賛辞を送っている。「ハービーは、バド・パウエルとセロニアス・モンクから、一歩前進していたんだ。あんな奴、ハービーの後に一人も現れていない」(『マイルス・デイヴィス自伝』、335頁)――、『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』で抜群の演奏を残していたことくらいで、レコードも持っていないし、彼がまだライブをしていることに驚いたくらいだった。

それでも私はここ最近、あの青年の言葉を何か契機のように思い出しては、ジャズを聴いている。そのジャズとは、たとえばジェイムズ・ボールドウィンがこのように書く類のものである。「あらゆるジャズは、とくにブルースは、激しくて、皮肉で、威厳があって、両刃の鋭さがある」(『次は火だ』弘文堂、34頁)。私はジャズの反復と、その僅かな変奏に何か希望に近いものを見出しているのかもしれない。

そういえばつい最近、沖縄のあるリサイクルショップで、誰かの、きっとその人にとってはある完全性を体現していたコレクションを、処分に困った周りの人間がそのまま持ち込んだようなジャズのレコードが何枚も売り出されているのを見つけた。思わずマイルスやコルトレーンなど何枚かサルヴェージ――レコードを買うことの翻訳性についてピッタリの言葉だ――した。次行くときは、ハービー・ハンコックがないか探してみよう。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。