第4回 「本質的な簡素さ」の歌声──Mavis Staples “We’ll Never Turn Back”

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

午後5時。ルート501をダーラムの方に向かって車で走る。サマータイムが終わるまでにはまだあと1ヶ月以上あるとはいえ、随分日が短くなった。

普段はこの時間に、一人で隣町のダーラムに向かうことはあまりなかった。平日の夕方に、チャペルヒルとダーラムをつなぐ大動脈のルート501に出ることがあるとすれば、それは、空っぽ近くなった冷蔵庫を前に、慌てて鶏のもも肉やベーコン、玉ねぎやじゃがいもなどを近所のホールフーズやトレーダージョーズに買いに行くときくらいなもので、つまり日常の必要に迫れたときがほとんどだった。

多様な肌の色をした人々の隙間から手を忍ばせて、買い物という日常語が陳腐に聞こえてしまうほどの大きさをしたカートに品物を放り込む。まったくあのカートの巨躯の特権は、最後まで満足に享受することができなかった。私たちに必要な品々では、カートの底に控えめな丘陵を作るのがやっとだったし、カートの角が商品の棚にぶつかって、崩れ落ちた品物が派手な音を立てたことは一度や二度ではなかったし、カートの上に座る権利をめぐって娘たちは喧嘩を始めるし。カートの隅にコロコロと転がり込んだリンゴを背伸びしてどうにか掴み、商品としての最期を全うしようとレジのレーン上を流れていく野菜の中に紛れ込ませた。

それは私の変わり映えのないアメリカ生活の中の、ある典型的な場面の一つだが、そんな時間に買い物を終えて501に戻ると、決まって、眩しすぎるくらいの夕方の西陽が、真っ直ぐに伸びた木々も、レンガ造の建物も、信号機も、横断歩道を歩く人々も、世界のあらゆる境界をぼんやりとさせていた。太陽の沈むチャペルヒルの方へ果敢にも飛び込んでいく車中は、目を凝らすのがやっとといったところで、サンバイザーなど気休めにすぎず、白い光の中をチラチラと幻のように映る前方の車の後ろ姿を追いながら家まで帰るのだった。

しかしあの10月の日、私はいつもの夕日を背にして、501をダーラムの方向に急いでいた。今夜はライブがある。遅れるわけにはいかない。空港のあるローリーへと向かう道は、いつもこの時間に混んでいたが、幸い、ダーラムに向かう3車線は空いていた。車のステレオは壊れていて、うんともすんも言わない。その代わり、カップホルダーに筆箱ほどの大きさのBluetoothスピーカーが立てかけてあって、小さな黒い身体を懸命に震わせている。ライブの予習をしておかなければ。必要以上に大袈裟な車の騒音を押し除けるように聞こえてくるのは、メイヴィス・ステイプルズの低く響く声だった。

 

メイヴィス・ステイプルズといえば真っ先に思い出すのは、まだニューヨークにいた頃、当時通っていたハーレム近くのユニオン神学校で受けていたジェイムズ・H・コーンのゼミのことだ。コーンは米国黒人の経験から聖書を読み直し、それを黒人神学として昇華させた第一人者で、私が2014年にアメリカに留学したのも、彼がきっかけの一つだった。黒人を中心に受講生が20人ほどのそのゼミでは、コーンの黒人神学形成に大きな影響を及ぼしたマルコムXとキング牧師の思想を学んでいた。2016年の春学期のこと。

3時間のゼミは生徒のディスカッションや発表が中心だったが、休憩を挟んで授業の後半の始まりに、決まって「Eyes on the Prize」というPBS(Public Broadcasting Service)が1987 年に放映したテレビドキュメンタリーシリーズを一話ずつ観た。黒人映画監督のヘンリー・ハンプトンの代表作だ。エメット・ティルの殺害から始まって、人種隔離教育の廃止、ランチカウンターでのシットイン、ワシントン大行進、公民権法の成立と、1950年代の中葉から1965年までの公民権運動の歴史を辿るのが第一部。第二部ではマルコムXやネイション・オブ・イスラムから始まって、シカゴでの活動や貧者の行進などに代表されるキング牧師の晩年、ブラックパワー運動の発展、ブラックパンサー党の創設、そして都市部での暴動など公民権運動後のアメリカを描き出す。当時の歴史を、ヒーローや預言者を特段崇め、彼らを英雄視するのではなく、市井の人々の経験から描き出した好ドキュメンタリーだった。

公民権運動の歴史の仔細は本から学べばいい。しかしそれだけでは十分ではない。あの時、闘っていた人々がどういう表情をしていたか、どういう目をしていたか、どういう声をしていたか、それをこの映像を見て学びなさい。いいか、公民権運動はキング牧師だけの歴史ではないぞ。一緒に闘った大勢の人間がいた。彼らが血を流したんだ。彼らが殴られたんだ。その時代の空気を感じなさい。

授業の3分の1を費やしてドキュメンタリーを観る理由を、コーンはそんな言葉で説明していた。果たして彼は、その映像を観ることが、私たちを1965年のセルマに連れ戻すと信じていたのだろうか。それとも、あの闘争の時代への遡及がどうしても不可能なことの悔しさを、私たちと共有しようとしたのだろうか。それとも、かつての未完の夢の続きを目の前の学生に託したのだろうか。

プロジェクターの操作をするのは、コーンの忠実な生徒といった風情の、スーツで身を固めたエンコシ・アンダーソンで、プロジェクターが降りると、暗くなった教室にはドキュメンタリーのオープニングが始まった。ボールドウィンが甥への手紙で喚起したのと同じ使徒たちが歌われる、主題歌のEyes on the Prizeが大きな音で流れ出した。

土牢につながれたパウロとシラス

保釈金を払えるような金もなく

褒美を目指せ、ひたすらに

諦めるな、諦めるな

諦めるな、褒美をただただ目指して、ひたすらに

             

叫び始めたパウロとシラス

扉がバタンと開き、外に出る

褒美をただただ目指して、ひたすらに、諦めるな

ボブ・ディランがデビューアルバムでその原曲を歌っている、公民権運動時代のフォークソングがあの暗い教室で流れるたびに、私は頭の中で、その歌をメイヴィス・ステイプルズの声に変換して聴いていた。彼女の声で、すでにその歌を聴いたことがあったからだ。この文章を書きながら、あらためてドキュメンタリーの冒頭を観てみたら、歌の部分は存外とあっさりとしていて驚いたくらいだから、よほどメイヴィスの歌声が印象に残っていたのだろう。メイヴィスはWe’ll Never Turn Backというアルバムでこの歌を歌っている。

2007年に出たWe’ll Never Turn Backは、メイヴィス・ステイプルズが、彼女自身深く関わった、公民権運動時代に歌われたプロテステストソングを歌い直すというコンセプトアルバムだった。ライ・クーダーが全面的にサポートしていたことから、彼のギターを聴きたくて手に取ったアルバムだったが、メイヴィスの歴史そのもののような声に一発でやられてしまったことは、言うまでも無い。このような企画はともすると薄っぺらいノスタルジーに取り憑かれ、過去を燃やし尽くす勇気の欠如の故に、今というときにあって聴くに堪えないものとなり得るのだろうが、このアルバムは、今、耳を貸されるべき説得力のようなものが伴って私には聴こえた。だからコーンの授業でEyes on the Prizeを耳にしたとき、私は真っ先にメイヴィスのこのアルバムを思い浮かべたのだ。

メイヴィスの自叙伝によると、このアルバムを作る背景にあったのは、2005年のハリケーンカトリーナの悲劇や、1999年、ニューヨーク警察に41発の銃弾を浴び、23歳で死んだリベリアからの移民、アマドゥ・ディアロの事件などだったという。ディアロの死は、警察の暴力についての問題を全米に喚起することになった。メイヴィスは、彼女を育んだキリスト教信仰の言葉を使って(ちなみに、メイヴィスはシカゴのサウスサイドのトリニティ・ユナイテッド・チャーチの教会員だ。公民権運動後のアメリカで、コーンの神学を教会の現場で実践したジェレマイア・ライトが、かつて牧師を務めた教会である。メイヴィスの父、ポップスの死後、彼のギターなしで歌うことに自信と意義を失っていたメイヴィスを励ましたのは、姉でマネージャーのイヴォンヌとジェレマイヤ・ライトだった)、こう語っている。

「主が私をこれまで生かしてくださったのは、この時のためだったと思う。(中略)キング牧師が私たちの正義のために血を流し、死んだのに、彼を一人にしてはおけないでしょ。それは許されない。今は21世紀なのに。アメリカで未だこんなことが起こっているなんて、私たちは恥ずかしく思うべき。学校では十分に黒人の歴史を教えない。でも私が歴史なの。私が歴史になる。子どもたちは知るべきだと思う。私たちが何を経験してきたか。私たちがどこからきたか」(I’ll Take You There: Mavis Staples, the Staple Singers, and the Music That Shaped the Civil Rights Era, Scribner, 2014)

この言葉から15年ほどがたち、アメリカの人種をめぐる状況は悪化の一途をたどっている。アメリカの高校のAP科目(専門性の高い上級レベルのカリキュラム)からは、保守派のバックラッシュの末、アフリカン・アメリカン・スタディーズの分野から批判的人種理論やクィア理論、ブラック・フェミニズムに関わる著者が多数削られた。コーンも、オードリー・ロードも、アリス・ウォーカーも、ベル・フックスも、マニング・マラブルも、シルビア・ウィンターも、ニッキ・ジョバンニも。もしかしたらメイヴィスの歌が教えられなくなる日も来るのかもしれない。

 

コンサートはダーラムの中心部に程近いキャロライナ・シアターの大ホールで行われた。煌びやかなロビーに入り、街灯に飛び込む蛾さながらに、物販のテーブルへと引き寄せられる。Tシャツやポスター、手提げバッグなどに混じって、LPレコードがある。We’ll Never Turn Backはないだろうかと淡い期待とともに探してみるが、2022年の再販までプレミア化していたそのレコードは、当然なかった。代わりに当時の最新作で、ベン・ハーパーがプロデュースを手がけたWe Get Byを手にとる。新品でレコードを買うのは珍しい。

暗転したホールの後方の深いチェアに腰掛けて、メイヴィスを待つ。バンドリーダーのリック・ホルムストロムを筆頭に、ベースとドラム、コーラスという小規模の編成を従えて、小柄なメイヴィスが舞台袖から現れた。その足取りは、遠目からはどこかふらついているようにも見えて、私は彼女の年齢を突きつけられる。私の好きなアーティストたちは、きっともうすぐ消えていく。でも、レコードはその記憶を引き取って、何度でもターンテーブルの上をくるくる回るだろう。

ドゥーン、ドゥクッドゥ、ドゥドゥデューンという跳ねるようなベースの音に、タッタカ、タッタカ、小刻みなドラムが駆け寄って、そこにメイヴィスが手拍子でリズムを加えた。疲れたメイヴィスはもはやどこかにいなくなり、ステージの上で重厚に舞っているのは、あらゆる場所を最上の礼拝堂へと変えてしまうあのメイヴィスだった。彼女の声が、ホールを占拠する。まるで未だ、警官隊と対峙しているかのように。放水を受けても、犬をけしかけられても、その場から動くつもりは微塵もないというように。If you’re ready!  If you’re ready! ステイプル・シンガーズ時代のヒット曲だった。

近年のオリジナル曲に、ステイプル・シンガーズの曲、ファンカデリックやバッファロー・スプリングフィールド、トーキング・ヘッズまでのカバー曲が散りばめられたそのコンサートは、あっという間に過ぎていった。メイヴィスの曲は、どれもシンプルなメッセージで貫かれている。愛とか信仰とか、友情とか、手をつなぐこととか、それさえあれば家賃を払う金がなくても、仕事を失ってウェルフェアライン(公的扶助)に並ばないといけないとしても、故郷と呼べる場所がなくても、車がオンボロでも、部屋に隙間風が吹いていても、メイヴィスが歌うところによると、どうにかなるのだ。それはこの複雑怪奇で、トラブルの多い世界にあって、あまりに単純で、楽観的に聞こえてしまうのだけれど、少なくともあの場にいた1時間ちょっとの間、それは動かし難い真実のように思えてしまうのだから、そしてあの時を思い出すと私の懐疑は今でも少し揺さぶられてしまうのだから、メイヴィスの声にはそれだけの説得力があるのだろう。ライ・クーダーがポップスのギターを表現して「本質的な簡素さ」と呼んだものは、きっとメイヴィスの声にも生きている。

メイヴィスのコンサートから数ヶ月後、パンデミックが始まった。今思えば、あの禍が世界を覆い尽くす前に行った最後のライブは、メイヴィスのコンサートだった。

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。

第3回 我が家にレコードプレイヤーがやってきた──Leon Redbone “Double Time”

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

レコードプレイヤーが家にやってきたのは、長女が生まれた頃だったから、2018年のことになる。

それはノースカロライナに越してきて一年目の春で、当時、私たち夫婦は、カーボロの外れの集合住宅に住んでいた。ベランダとロフト付きの薄緑色をした小さな家は、2人で暮らすには十分な広さだった。リビングのガラス戸からはカロライナの青い陽がよく入って、少々くたびれた灰色のカーペットを明るく照らす。お腹の大きかった連れ合いの百々子は、いつからかそこに椅子を引っ張ってきて、読書やら編み物やらをするようになった。私が気に入っていたのは暖炉があったことで、しかし結局、一度も火を焚べないまま、あの家で過ごした1年は過ぎ去ってしまった。暖炉の火で暖を取るには、ノースカロライナの冬は少々暖かすぎたし、そもそもアメリカ式のセントラルヒーターが稼働していれば、他の方法で部屋を暖かくする必要はなかったのだ。

長女とレコードプレイヤー、どちらが先に家にやってきたのか、百々子と私の記憶は一致しない。百々子は長女が生まれたのが先だと言うし、私はその逆だと思っている。そういうことはよくあって、大抵の場合、結果は2人とも間違っているか、私が間違っているかのどちらかだ。結婚記念日の日付ですら、私たちはそれぞれに違う日を誤って記憶していて、義母に教えてもらったくらいだから、記憶はあまり当てにならない。もっとも、レコードプレイヤーが家にやってきた日に限って言えば、私たちが2人とも間違っているということはあり得ないので――つまり、プレイヤーと赤ん坊が全く同じ日にやってきたということはない――、おそらく、私の記憶が違っているのだろう。いずれにせよ、赤ん坊の耳新しい泣き声と、レコードのザラザラとした音は、ほとんど時を同じくして、我が家にやってきた。

 

レコードプレイヤーを手に入れるまで、長い間、私にとってレコードは聴くものではなく、眺めるものだった。台湾、バークレー、ニューヨークと一年おきに住む場所が変わるような生活が続いていたから、荷物はいつも最小限。住んでいたところも間借り同然だったから、当然、レコードプレイヤーなど置けなかった。だからレコードを買ったはいいものの、それがどんな音がするのか、CDやストリーミングと音がどう違うのか、あれこれ想像する時期が長く続いた。いつの間にか、部屋の隅には聴いたことのないレコードたちが積まれていって、少なくない存在感を放つようになる。そろそろこのレコードを聴いてみたい。真ん中のラクダの両脇に腕と足を組んでもたれかかる、白いスーツ姿のレオン・レッドボーンのサングラスに見つめられ、そんなことを思ってもすぐ、来年はどこにいるか分からないしな、と思い直す。当時、私は毎年、アメリカ各地の大学院へ願書を乱出しては、受験に失敗し続けていた。

そんなその日暮らしならぬ、その年暮らし――細野晴臣なら住所不定無職、おまけに低収入と歌うだろうが――に終止符が打たれたのは、ようやくノースカロライナに来てからのことだった。運よく当地の大学院に拾われた私は、そこで少なくともフィールドワークをするまでの3、4年を過ごすことになった。ようやく毎年次の行き場所を探してせかせかする生活から解放され、同じ場所に腰を据えて、暮らすことができる。そうして、この世界に対する錨のようなものを一つ持つつもりで、私はレコードプレイヤーを買ったのだった。

オーディオテクニカの入門機。初めて見るレコードプレイヤーは予想していたよりも大きく、ずっしりしていて、長年かけてようやく出会った相棒のような頼もしさがある。こんな時に、なんでレコードプレイヤーなんか買うの。他に置く場所が見当たらず、暖炉の横、片手で持ち上げられるような簡易ダイニングテーブルの3分の1ほどを占拠してしまった肩身の狭そうな私の相棒を見て、百々子は不満げに言う。我が家にはすでに赤ん坊という、この世界から逃げられない十分な理由がある。赤ちゃんにもレコードの音で音楽を聴かせるといいと思って、と私。これは半分言い訳で、半分は本音だった。しかし、いくらなのこれ、高っ。ここ数年で買ったものの中で何よりも高い! 百々子は、しわくちゃになったレシートを広げている。これでも安いやつを選んだんだけど。私の声には力がない。

 

さて、プレイヤーがあるからといって、当然、レコードが聴けるわけではない。スピーカーがなければ、レコードプレイヤーは口のない身体。しかしスピーカーにかけられる予算はもうない。そこで私は、ローカルな個人間売買の情報を網羅しているウェブサイトで、スピーカーを探すことにした。しばらくダイニングテーブルの上で物置と化したプレイヤーを救済すべく見つけたのは、KLHのブックシェルフ型のスピーカーだった。値段も手頃で、古いスピーカーにしては状態も良さそうだった。早速、持ち主に連絡を取り、翌日、スピーカーを受け取りに行くことになった。

州間高速道路40号線をカーボロから30分ほど走ったメバネという街のレストエリアが、その集合場所だった。私たちが、カーオーディオの壊れた2007年型のホンダ・アコードを譲り受けたのは、長女が生まれてすぐ後だったから、スピーカーを受け取りに行く時には、確実に、後部座席でベビーカーに埋もれて眠る――ありがたいことに、車に乗るとすぐに寝る子だった――彼女がいたことになる。

高速道路を飛ばして、レストエリアに滑り込む。向こうは白色のピックアップトラックでくるはずだが、まだそれらしい車は広い駐車場に見当たらない。どんな人が現れるのだろうか。同じウェブサイトを使って買い物をしたことは、アメリカで何度かあったが――マンハッタンで小さな机を手に入れたときは、それを担いでブロードウェイを歩いたこともあった――、いつも少し不安になる。犯罪の噂を聞いたこともある。正面のドーナッツ屋で、牛乳をたっぷり入れた酸っぱいコーヒーと甘いドーナッツを買って、車を待つ。後部座席では娘が目を覚まし、早速、泣き声を上げている。

しばらくして、白いピックアップがやってきた。車から降りてきたのは白髪の白人のおじいさんで、春先の肌寒い日に、チェックのYシャツに短パン姿だ。その風貌は、どこかヴァン・ダイク・パークスを思い起こさせて、私は警戒心を解く。彼の方も、赤ん坊を連れている私たちを見て安心したのか、会うなり顔を緩ませて、何ヶ月なの、と聞いてくれる。生まれたばかりです。どこからきたの? 日本から来ました。博士課程で研究しています。へえ、卒業はいつ? いや、正確には決まってなくて……。そんな質問を私はこれまで何十回と受けてきたが、そのたびに、そんな当然の質問はいつも私を困らせた。博士論文がいつ書き終わるのか、いつ卒業できるのか、本当にわからないのだ。こちらの気まずさを察したのか、スピーカーを取ってこようとおじいさんは言って、ピックアップの荷台からスピーカーを二つ持ってきてくれた。代金と百々子が焼いたクッキーを渡して、私たちは家路についた。

うん、木のフレームが渋い、いいスピーカーだ。これでようやくレコードが聴ける。家に帰ってきた私は、はやる気持ちを抑えて、レコードプレイヤーとスピーカーをつなごうとするのだが、そこである違和感を覚えた。何かがおかしい。どう考えても、二つを接続できないのだ。もしやと思って調べてみると、どうやらスピーカーの音を鳴らすにはアンプというものが必要らしい。知らなかった。しかし、困ったことになった。果たしてアンプはいくらするのだろうか、と考えて百々子の顔が浮かぶ。私は貧乏学生だ。これ以上、出費するわけにもいかない。しかし、これではいつまでもレコードが聴けないではないか。まったく、なんでこんなにレコードに振り回されないといけないのか。

と、ふつふつと、浮かぬ顔で考えていたその夜、あのおじいさんから連絡がきた。「クッキーとてもおいしかったよ。妻がいたく気に入ってね。もしよければレシピを教えてくれないかな?」「もちろんです!」渡りに船とはこのことである。私は心の中で百々子のファインプレーに拍手しながら、返信した。ここで聞かずに、いつ聞くというのだ。「僕も彼女のクッキー、大好きなんです。レシピを聞いておきますね。実は、アンプがなくて困っていまして。もしかして売ってもらえるアンプなどありませんか?」すぐに返事がくる。「古いアンプが倉庫に一つある。私はもう使わないから、譲ってあげよう」。私はもう一度、百々子に、そして今度はおじいさんにも、心の中で拍手をした。

次の日、同じメバネのレストエリアで、あのヴァン・ダイク・パークス似のおじいさんと私は待ち合わせ、彼が持ってきてくれたDenonの黒いアンプを譲ってもらった。立ち上がるのに少し時間がかかるけど、パワフルないいアンプだぞ。おじいさんは、少し名残惜しそうにそのアンプを見ながら、言った。どんな記憶が、あのアンプには込められていたのだろうか。

 

スピーカーとアンプの接続や、針圧の調整で不器用な私は一通り、そしてきっと人並み以上に苦労しつつ、ようやく、レコードが聴ける環境が整った。数年越しの夢が叶うのだ。最初のレコードは何にしようか。そこで私は、パナマ帽を被ったレオン・レッドボーンのことを思い出した。ボブ・ディランが、もしレコード会社を立ち上げるならレッドボーンと契約すると言ったとか、言わなかったとか。妊婦の友人に、この人いいよと言ってレッドボーンを勧めたら、つわりがひどくなったとCDを返されたとか、返されなかったとか。アメリカでの最初の数年の苦楽を共にしてきたDouble Time。アメリカにきたばかりの頃、サンフランシスコの広大なフリーマーケットで、異国で奇跡的に旧友に出会うような気分で見つけた、数ドルのアルバム――もっともそれ以来、パナマ帽の彼を何度もレコード屋のジャンクボックスで見るようになるのだけれど――。これにしよう。

プレイヤーのダストカバーをあげる。大きなジャケットから、溝を手で触れないように、不安定な円盤をお盆でも持つように取り出し、そして両手で落とさないように挟んで、真ん中の突起目指して円盤を着地させる。スイッチをひねれば静かに円盤が回転しだし、私はトーンアームをつまみ、ゆっくりと持ち上げて、円盤の端に落とす。バチッ。ジリジリジリ。少しの静寂の後、レッドボーンのギターが鳴り始める。

There’s a great big mystery

It sure has worried me

It’s diddy wah diddy

It’s diddy wah diddy

I wish somebody’d tell me what diddy wah diddy means

その音がいい音なのか、つまりよくレコードの音を形容して言われるようにふくよかだとか、温かみがあるだとか、立体的だとか、私の耳には判別がつかなかった。もしかしたら、レコードの音というものに期待をしすぎていたからかもしれない。レコードを聴けない、聴けないと思って過ごした数年の間に、理想の音だけが膨らんで、私のささやかなオーディオシステムでは――何せレコードプレイヤーはダイニングテーブルの上、スピーカーとアンプはその横のベンチに置いていたのだ――、現実が追いつかなかったのかもしれない。いや、そもそも私は、そのくるくると緩やかに回る円盤が、髪の毛ほどの針と複雑な回路を経て、スピーカーから音を鳴らすという単純な事実に驚き、そして満足してしまっていたのかもしれない。

しかし、そこには同時に、レコードでしかあり得ない音楽と肉体的に交わることの喜びが確かにあって、私は何かの原理主義者になることを拒否したいのだが、ことレコードに限ってはそんな決意も少し揺らいでしまうほど、レコードの音に引き込まれる自分もいた。もし音楽に形があるなら、こんな形をしているのかもしれない。規則正しく回り続ける黒いレコードの丸いフォルムを見ながら、そう思った。

 

次女が産まれたのは、それから2年後の初夏だった。私たちは隣町のチャペルヒルに引っ越したけれど、まだ、ノースカロライナにいた。出産が間近に迫った頃、私は言葉を覚え始めたばかりの、もうすぐ姉になる長女に、子ども用のレコードプレイヤーをプレゼントした。7インチのシングル盤を再生できる、水色のポータブルプレイヤー。こうしてまた、子どもが一人増え、レコードプレイヤーも一台増えた。

 

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。