第9回 飛んだし

「あー、ちょっともう、飛んだしー!」

レストランで二人の男女が向かい合って座っている。「飛んだしー!」と言ったのはカーキ色のシャツを着た若い女性で、そのシャツを検分している。どうやら「飛んだ」のはソースか何かで、男がパスタを皿からフォークで絡め取ろうとしたときに、飛沫が服に飛んだらしい。

「飛んだしー、まあうちはいいけどー」

女性は服を見てもう一度言った。どうやらひどいことにはなっていないようでよかった。

それはそうとして、「飛んだしー」という、ちょっと耳新しいことばづかいが気になった。そういえば、こういう「し」の使い方を最近よく見聞きする。「泣いたし」「転んだし」「わけわからんし」などなど。なぜ「し」、それも語尾に「し」なんだろう。

***

「飛んだ」のあとにつく「し」は、文法上は接続助詞ということになる。このような「し」は通常、いくつかのものを並べるときに用いられる。たとえば坪内逍遙の『当世書生気質』にはこんな表現がある。「無理矢理引ぱられるし、酒には酔ってるし」。これは明治の言い回しだけれど、現代でも同じような言い方は可能だろう。たとえば、「もうサイアク、雨は降るし、靴はびしょ濡れだし、帰ったら洗濯物はぐちゃぐちゃだし」という具合に。

「し」にこのような列挙や併存の性質があることは言語学者によって指摘されている。白川博之(2009)は接続助詞で終わる文章のことを「言いさし文」と呼び、語尾の「し」のはたらきとして、「「Pシ」は文内容 P が成り立つだけでなく、それ以外にも成り立つような文内容 X が併存することを示す」ことを挙げている。かみくだいて書くと、たとえば「雨は降るし」で終わる文ならば、「雨は降る」だけでなく、それ以外の何か(「靴がびしょぬれだし」「洗濯物はぐちゃぐちゃだし」などなど)があることを前後に示したり、暗にほのめかしたりするというわけだ。

けれど、「し」には別の意味もあるのではないか。たとえば、「そろそろ出ようか。雨もあがったことだし」「むしろうんと寒くなるかもね。夏は暑かったし」のように、わたしたちは「し」を並べることなく単独で用いることもよくある。そして、こうした「~し」では、他の併存する何かを推測する必要は特に感じられない。一方、「~し」の前後には、「そろそろ出ようか」「むしろうんと寒くなるかもね」のように、「~し」を根拠や因果関係とするようなできごとがしばしば語られる。

「~し」が根拠や因果関係と結びつく点に注目して前田直子(2005)は、「し」には、単にさまざまなものごとを並べて結びつけるだけではなく、あるできごととその「理由」とを結びつけるはたらきがあることを強調している。

「~し」が何らかのできごととその理由を結びつけるはたらきを持つのなら、「~し」が単独で語尾に表れることは確かに可能だ。しかし、まだ問題は残っている。冒頭の「もう、ちょっと、飛んだしー」はいきなり発せられている。「飛んだしー」の前後を見ても、「飛んだ」ことを理由とするようなことばは見つからない。いったい「飛んだしー」は何をしているのだろう?

***

最近の「し」の興味深い使われ方に、「言ったよ」「いや、言ってないし」という具合に、議論の相手に反論するときの「し」がある。

一例として、かつてSMAPが「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」に出演したときの会話を見てみよう。ここでは中居正広が独身時代の松本人志と「最期を誰に看取られたいか」について話し合ったことを回想している。

 

中居「『誰に看取ってもらいたい』みたいな話になったんです。(中略)んでまあぼくらが、親なのか、友達なのか、それともその当時好きだった女の子だとか、いろいろ考える。んでその話で、『松本さんは、 誰ですかね』っつったら、(松本さんが)『うーん、そうやなぁ……浜田かなぁ』」

松本(首を横に振り、立ち上がって中居を指さしながら)「絶対、言うてないし!(笑)」

中居(松本を指さしながら)「絶対、言った!(笑)」

松本「そんなん言うわけないし!」

中居「絶対、言った!」

松本「なにその話!」

(「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」2013年7月1日放映)

 

もちろん、松本の相方浜田雅功への隠された愛情が暴露されたところがこの会話のおもしろさなのだが、ここでは松本の使う「~し」に注目しよう。これらの「~し」には特徴的な点がいくつかある。単独で用いられること、語尾にくること、強い感情がこもっていること、そして前後に理由を必要とするできごとが見つからないことだ。この会話は「(言うてないから)きみの言うことは間違ってる」とか「(言うてないから)嘘だ」といった、「言うてない」を理由とするような表現を欠いている。大山隆子はこのような反論における「し」には「これ以上この話題については議論の必要が無い。打ち止めにする」という相手への態度が表れていると指摘している。

では、なぜ語尾を「し」にすることで相手に対する強い反論の態度を示すことになるのか。この点について大山は次のように述べている。

「もともと「し」は「並列·累加」を表す統語的特徴から、「従属節 し。」で終わっていても、話し手の根拠とするものはまだ幾らでも推論可能なのだ。」

つまり、「し」にはもともと複数の根拠を並べる性質があるので、「~し!」以外にもいくつかの根拠があることをほのめかして、反論を強めているのではないか、というわけだ。

しかし、この考え方には少し納得できないところもある。「絶対、言うてないし」の松本人志のことばには、むしろ複数の根拠など必要としないほどの強い態度が感じられる。それが証拠に彼は、他の理由を挙げるかわりに「言うわけないし!」とほぼ同じことばを繰り返して「言った」「言うてない」の押し問答を引きおこしている。

冒頭にあげた「飛んだしー」もそうだ。「飛んだしー」はいきなり発せられて、「飛んだ」を理由とするようなできごとを欠いている。そして同じ「飛んだしー」が繰り返される。

もし、「し」がさまざまな理由を並べる性質を持つのなら、「言うてないし、思ってもいないし、考えたこともないし」あるいは「飛んだし、服が汚れたし、床にもこぼれたし」という具合に、理由をいくつも挙げればよい。けれど、「飛んだしー!」「言うてないし!」では、話し手はむしろ「言うてない」こと、「飛んだ」ことを繰り返して、聞き手をそこに引きつけようとしている。これはどういうことだろう。

***

じつは、Twitterを見ていくと、「飛んだしー!」に似た「し」にしばしば行き当たる。いくつか例を挙げてみよう。

 

・誤字ってるしw

・右肩トンガってるしww

・クレヨン触ったあとの手でスマホ触ったら画面汚れたしw

・ぶふっっー!!(笑)めっちゃ吹いたし!(笑)

・腰痛本当ひどいし…

・いてて、自分のコート踏んで転んだし うっ……

 

これらの例では、「~し」は単独で用いられている。しかも「~し」を理由とするようなできごとを欠いている。いや、むしろ何かが原因となって起こった結果について「~し」が用いられている。この現象は語尾の「し」が理由を示すとする前田の説では、いっけん説明が難しいように思える。では、これら最近の用法は、従来の「~し」の特徴である、複数のものごとを並べる性質も、理由を述べる性質も欠いた、まったく新しい表現ということになるのだろうか。

いや、そう断じる前に、まだ考えられていない大事な共通点を考えてみよう。それは、これらの「~し」に込められている感情である。

冒頭の「飛んだしー!」や「言うてないし!」、そしてTwitterに見られる単独で語尾につく「~し」の多くには、感情の激しさを示す何らかの表現がくっついている。感嘆符や笑いを示す記号、あるいはうめき声などがそれにあたる。つまり、「~し」は、単に冷静に話されているのではなく、いままさにそのことばを発しつつある話し手の感情の高ぶりを伴っているのである。

単独で語尾に用いられる最近の「~し」はこうした感情と関係しているのではないだろうか? ここですでに前田が指摘している、あるできごととその「理由」とを結びつける「し」のはたらきに注目して、次のような「感情結合仮説」を考えてみよう。

なんらかの感情表現とともに語尾で用いられる「○○し」は、○○で示されているできごとがいままさに高ぶっている話者の感情の原因·理由であることを示す。

先に挙げたTwitterで表現される語尾の「~し」は、すべてこの感情結合仮説で説明がつく。「誤字ってるしw」は、Twitterでよく見られる表現で、うっかり誤字まじりのツイートをしたときに用いる。ここでは、「誤字ってる(ことの発見)」が、「し」を伴うことで、w(笑い)の原因として示されてる。「右肩トンガってるしww」など、他の笑いを伴う表現も同様だ。一方「腰痛本当ひどいし…」では、腰痛のひどさが原因となって苦痛の感覚がことばに表れていることが、内容や「…」からわかる。「転んだし… うっ」も同様だ。

松本人志の例もまた、感情結合仮説で説明できるだろう。「言うてないし!」ということによって、松本は「言うてない」という反論内容を、いままさに相手に対して起こっている感情の揺れ、すなわち立ち上がって相手を指さし、猛烈に抗議するほどの感情の揺れと結びつけているのである。

従来の言語学では、文字化されたテキストを文例にして考える方法が一般的だったため、ことばの声に表れる感情を考慮した議論は多くない(例外に定延利之の一連の研究がある)。しかし、わたしたちの耳に漏れ聞こえてくる話しことばの感情をすくい上げるには、感情結合仮説のような試みも無駄ではないだろう。

***

感情結合仮説を使うなら、冒頭の「飛んだしー!」も説明がつく。話し手は「~し」を使うことによって、いま起こっている話し手の感情の高まり(狼狽など)の原因が、ソースの飛沫が「飛んだ」ことにあることを示しているのだ。そして、「飛んだしー」が二度繰り返されたあと、感情がおさまると、「まあうちはいいけど」と、やや落ち着いた表現が現れる。

このように、話し手は語尾で「○○し」を用いることによって、○○で示されている内容がいままさに発話中の感情を揺さぶっていることを表す。言い換えれば、「し」は単独で語尾につくことで、いままさに感情がことばで揺さぶられているさまを伝える。これが、感情結合仮説で説明される、最近の「~し」のはたらきである。

おっと、今回は久しぶりだったので長々と書いてしまった。くたびれたし!

 

【参考文献】
前田直子 2005 現代日本語における接続助詞「し」の意味·用法: 並列と理由の関係を中心に。人文 2005 (4)  pp.131-144.
大山 隆子 2017 「し」の機能 : 「よ」「から」との比較を含めて。北海道大学大学院文学研究科研究論集 2017 (17) pp.135-155.
定延利之 2016『コミュニケーションへの言語的接近』ひつじ書房 pp.368
白川博之 2009  『「言いさし文」の研究』 くろしお出版刊 pp.226

Profile

1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声の身体動作の調整の研究。日常会話、介護場面など協働のさまざまな場面で、発語とジェスチャーの微細な構造を分析している。最近ではマンガ、アニメーション、演劇へと分析の対象は広がっている。『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書)、『浅草十二階(増補新版)』『絵はがきの時代』(青土社)など著書多数。ネット連載に「チェルフィッチュ再入門」、マンバ通信の「おしゃべり風船 吹き出しで考えるマンガ論」などがある。

第8回 together

いつものように学食で昼食を食べていたら、隣の学生たちがいそいそと立ち上がった。

 

「今日のプーさん、どこからやったっけ?」

「together?」

「あ、そうそう」

 

断片的にもれてくるやりとりが一瞬、詩のように聞こえる。彼らは『プーさん』という符牒で呼ばれている旅に出るところ、旅の始まりはtogetherという待ち合わせ場所か。いや、常識的に考えよう。いまはもうすぐ三時間目が始まる時刻で、彼らの手にちらと英語のリーダーらしきものが見える。おそらく彼らは英語の講読か何かの授業を受けにいくところで、その授業ではミルンの名作『クマのプーさん』をテキストにしているのだ。

彼らはただ、授業の内容を確認するためにこんなやりとりをしただけなのだろう。しかし、それを漏れ聞いたわたしは、なんだか謎をかけられたような気がした。『クマのプーさん』に「together」が出てくる箇所とはどこだろう。プーさんにはクリストファー・ロビンも子豚のピグレットもイーヨもいる。誰と誰がtogetherなのか。

数十年前なら洋書屋にわざわざ出かけていって、『クマのプーさん』のペーパーバックを手にとり、最初から丹念に読んで行くというロマンチックな展開になっただろう。しかしいまやミルンのテキストはオンラインで容易に閲覧することができる。『クマのプーさん』の原文を検索するという無粋なこともすぐにできてしまう。さっそく12件の「together」がヒットした。

 

クリストファー・ロビンとウィニー・ザ・プーとピグレットは一緒に話している。/ピグレットとプーはそれからいろいろ話して一緒に家に帰る時間になった。/彼らは一緒に座って考え抜いた。/ピグレットは穴の底に瓶詰めを置いて、這い出すと、一緒に家に帰った。/でもクリストファー・ロビンとプーは家に戻って一緒に朝食を食べた。/そこで彼らは一緒に話し始めた。/そして彼らは一緒に小川を少し遡った。/プーとピグレットは思案しながら、すばらしい夜の中を、長いこと何も言わず、一緒に家路に着いた……

 

誰かと一緒にやることは意外に種類が少ない。話すか食べるか歩くのだ。

 

***

 

「一緒に」動くというのは不思議な活動だ。たとえば今、立ち上がった彼らの動きがそうだ。相手に視線を向け、声をかけながら、テーブルに手をつき、両脚の向きを細かく動かしながら、椅子を引く。体のそれぞれの部分が異なる目的で動きながら「話しながら立ち上がる」という活動を行っている。そのまま話しながら歩き出すとき、歩く歩幅や歩速は我知らず調節されている。自分たちが横並びになっていることを確かめながら、周囲のざわめきを感じつつ自身の声をときには快活に、ときには声高に、そしてときには小さくする。食堂の重い扉を開ける。先頭の一人が扉を押すと、それが自動的に戻ってくるよりも早く二番手が扉を押さえてすり抜ける。体はすり抜けながら片手はまだ三番手のために扉を軽く支えており、三番手はあわてて歩を早めてその支えられた扉に手をあて、すり抜けざまに軽く後ろを振り返ってから誰も来ないのを確かめて扉を手放す。

「一緒に」動く活動は、多くの場合、惚れ惚れするような微妙なタイミングで調整されているのだが、わたしたちはそれをあまりに当たり前のように行っているので、自分がいかに複雑なことを成し遂げているかに気づかない。この「当たり前のすごさ」を実感してもらうために、わたしは毎年、人がドアを開けて向こうに行くという行動を何度も観察するという演習を行っている。学生に、交替でドアを開けて向こうに出てもらう。一人がドアを通過するとき、ドアに近づく歩幅がどう変化するか、ドアを押そうとするときと引こうとするときで、歩幅の変化はどのように違っているか、手はいつドアに向かって差し出されるか、ドアを開ける瞬間、脚の向き、上体の向きはどう変化するか、ドアが開いているわずかな時間の間にいかに体は巧妙に向こう側に移動するか。こうした細々とした動きをことばにするという課題を繰り返す。

一通り課題が終わったら、今度は食堂に移動して、利用者がドアを開けるところを観察する。おもしろいことに、複数の人がドアを通過するときに毎年必ず笑いが起こる。一人の人がドアを通過する運動の精妙さを何度もたどったあとでは、動作を見る観察眼は格段に解像度が上がっている。二人、あるいは三人が開けた扉を次々とリレーのように受け渡して通過していくさまは、まるでアクロバティックなグループ演技を見るようで、ふだん当たり前に見過ごしていることが、あまりに見事に見えるので、自分で自分がおかしくなってしまうのだ。

 

***

 

もし、学食で立ち上がった学生たちの用事が英語の授業だったなら、それは単に「together」の出てくる箇所というだけでなく、文が「together」で終わる箇所だろう。そしてそれは授業の区切れ目になるような箇所、今週の授業を終え、来週の授業を始めるのにふさわしい場所のはずだ。そんな区切れ目らしい区切れ目はどこだろう。

どうやらそれはここらしい。

 

ピグレットはまんざらでもなさそうに耳をかいてから、金曜まではやることがないし、行くのは楽しそうだ、もしそれがほんとにイターチだったら、と言いました。「もしイターチたちだったとしたら、ってことだよね」。とウィニー・ザ・プーは言って、ピグレットはなんであれ金曜まではやることがないから、と答えました。そんなわけで、彼らは一緒に出かけたのです。」(『クマのプーさん』第3章)

 

そこからプーとピグレットは小さな堂々巡りの旅に出る。彼らもいまごろその旅を読んでいる。

 

Profile

1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門は人どうしの声の身体動作の調整の研究。日常会話、介護場面など協働のさまざまな場面で、発語とジェスチャーの微細な構造を分析している。最近ではマンガ、アニメーション、演劇へと分析の対象は広がっている。『介護するからだ』(医学書院)、『うたのしくみ』(ぴあ)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮選書)、『浅草十二階(増補新版)』『絵はがきの時代』(青土社)など著書多数。ネット連載に「チェルフィッチュ再入門」、マンバ通信の「おしゃべり風船 吹き出しで考えるマンガ論」などがある。