第9回 この世の影を

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

最近、ハムスターを飼いはじめた。と話すと、決まって「えー! いいなー」と好感触を得る。ハムスターかわいいですよねえ、わたしも昔飼ってました、と言われるか、子どもの頃いっとき流行ってたじゃない? 飼いたかったなー、と話す人もいる。相手が同世代だと、飼育経験の有無に限らず、どうもハムスターにまつわるそれなりの思い出や思い入れがあったりするらしい。かくいうわたしも小学生当時愛読していた『ハムスターの研究レポート』(大雪師走)におおいに影響を受け、しぶとくねだって飼いはじめたくちだった。

はじめて家に迎えたハムスターはたしかにかわいかった、はずだがあまりよく覚えていない。ほんとうにわたしが魅了されていたのは、ハムスターのかわいさを余すことなく掬いあげる『ハム研』の作者、大雪先生のその観察眼だったのかもしれない。ハム研に出てくるハムスターたちと違って、うちのはおとなしくてつまらないなぁと思うことさえあった。こちらが与えたひまわりの種をほおぶくろに溜め込むだけ溜め込んで、けれどどうやっても目が合わないことが、子どもの自分にはどうしても不満だった。

それで、以来二〇年近くぶりにうちにやってきたハムスターである。

子どもの頃飼っていたのは小型のジャンガリアンだったが、今回はそれよりも一回り大きいゴールデンハムスター、なかでも全体がオレンジがかったベージュの、キンクマという種類なのだった。昨年末、保育園のクラスLINEに「ハムスターの赤ちゃんが生まれたのでどなたか飼いませんか?」という連絡が流れたのがきっかけだった。ちょうど、うちの子どもが動物に興味を示しはじめた頃でこれはいいタイミングかも、と一匹迎えることになった。

小学生の頃は気づかなかったけれど、よく観察すればハムスターはかなり面白い。表情はつねに「無」だが、ほとんど必死の毛づくろいは見ていて飽きない。人間に撫でまわされた後にはなお念入りなのも憎めない。おしっこをするときには自分で決めたケージの角で、逆立ちのような格好をする。子はそれを見つけると「逆立ちおしっこ!」と教えてくれる。思いつきで、せんべいの破片なんかを割って与えてやると、両手で器用に持って、目を細めて齧っている。無表情と思っていたけれど、うまいうまいと顔に出ているようにも見えなくない。手にほとんど毛はなく、やたらと赤い。しっかりと長い指がある。そして、なぜだか睾丸がものすごく大きい。はじめなにかの病気かと思って案じたが、どうやらそれはゴールデンハムスターのオスなら通常なことらしかった。睾丸で体温調節をしているのか、部屋があたたまりすぎると、ふたつの剥き出しの睾丸はいよいよこちらによく見える。

行動もかなり大胆だ。ハムスターってこんなに高くジャンプするのだったか。ぼてぼて走ったかと思いきや、いきなり飛ぶ。二メートル以上はある本棚とわずか数センチの壁の隙間をさかさかと登り、本棚の上までたどり着いてしまったときには驚いた。人間にしたらビル何階分だろう、っていうかどうやって下ろす?! と深夜に夫と慌てた。あるいはその本棚の裏にせっせと巣を作り、ある夜からまったく出てこなくなった。諦めて数日過ごすが、いっこうに姿を現さない。見かねて棚の本を出して動かしてみると、たくさんのティッシュと、大量の、これは本棚を齧って出た木屑? いや違う、米だ。え、これ全部米だよね。めちゃくちゃ米を蓄えている。気づけば台所の玄米が入っていた瓶のふたはいつの間にか空いており、夜な夜なそこに出入りしてこんなに玄米をため込んだのだ。その生存本能の高さ、ワイルドさ、何よりこのタフネス。うちに来たばかりの頃はもうほんの些細なことで死んでしまうのではないかとひやひやして、暖房をつねに稼働させたり、こまめに息をしているか覗き込んだりした。けれどこの姿を見て、滅多なことでは死なないのではないか、と深く頷くに至ったのだった。

でも、死ぬのである。ハムスターの寿命は二年か長くても三年そこらで、ほんとうに短い。ハムスターにまつわるエピソードを聞かせてくれた友人知人、みな口を揃えて「でもすぐ死んじゃうもんね」と声を落として言うのだった。そうなんだよねえ、とそのたびに同じトーンで返す。今回譲ってもらったのは生後一か月のハムスターで、といってうちに来た頃はすでに大人と見分けのつかない大きさだったが、それでもまだ生まれたてなのだった。生まれたてなのに、心のどこかでは(でもすぐに死ぬんだよな)と思ってしまう。こんなかわいいのに。こんなに元気なのに。何かにつけて、死がよぎる。だって二年なんてすぐだ。それでも、というかそれとは関係なく、わたしたちはやってくるハムスターのために立派なケージを用意した。子どもと張り切って名前を考えた。保育園で飼っている羊にちなんで「よもぎ」と名づけた。

そもそもなんでそんな寿命が短いんだよ、と半分苛立ちながら調べると、ハムスターの心拍数は一分間に五〇〇回らしい。信じられないくらい早い。人間はだいたい七、八〇くらい、ゾウは四〇回ほどらしい。仮に総心拍数というものがあるのだとすれば、そんなのそこにどれだけ早く辿りつけるか、みたいな連打の早押しゲームじゃないか。

だから、なるべくハムスターが穏やかに過ごせるように静かな環境を整えてあげましょう、とそのネット記事は結ばれていた。そんなほとんど高速早送りみたいな一個の命に、わたしたちの暮らしの働きかけで歯止めなんてかけられるはずがない。けれど掃除機をかけるたびに、この騒音がストレスにならないだろうか、子どもが無理に触ろうとして心拍が加速しはしないだろうか、などとどうにも気にしてしまうのだった。

ハムスターには到底およばないが、わたしもけっこうな頻脈である。平常時でもだいたい一〇〇はあるので、ちょっと緊張するとすぐに一二〇を超えてしまう。自分が頻脈であることは、献血を受けようとしたのがきっかけで知った。「あー、心拍がね、一〇〇以上あると献血ってできないんですよねえ、せっかく来てもらって悪いけど」と言って断られたことが何度もある。また断られるかも、とわかっていながら果敢にチャレンジしては撃沈する。一度は悔しくて、三〇分間ほとんど瞑想に近い深呼吸を繰り返してリベンジし、ぎりぎりの九九でクリアしたこともあった。白衣恐怖症、みたいなことなんだろうか。とにかく緊張するとそれこそ早鐘のように、心臓がものすごい速さで動いているのがわかる。

対して夫の心拍は平常時で六〇ほどらしい。一度旅先の海で滑って転んで意識を失って救急車を呼んだ際、サイレンとともに運ばれる車内で「旦那さん、心拍ものすごい遅いですけど(大丈夫ですかね)?」と言われたこともある。スポーツをやっていると心機能は鍛えられる、ということらしいが、ちょうど緊張時わたしの半分である。ということは単純に寿命も倍違うことになるのだろうか。ハムスターと人間、ハムスターとゾウ。勝手に自分をハムスター寄りの生になぞらえてしまう。

そんな高速早送りの生なんて、かわいそうだと勝手に思う。ただ食べて寝て、夜中に回し車で運動して、また食べて寝る。そうして二年やそこらで死んでしまうハムスターの命など、ほんとうにささやかで、それは言ってしまえばほとんど無意味なのではないか。飼い始めてからまだ一ヵ月しか経っていないのに、そんなふうに憐れんではため息をつく。「そんなすぐに死んじゃうなんてさあ。だって死んだら終わりじゃんね」と言うと、夫は「すぐそうやって人生とか命の意味を死で捉えようとするじゃん」とあきれる。すぐ死んじゃうことと、いつか死ぬことは別でしょ? というか、いつか死ぬからいま生きることも無意味だって言えるのはなんで? と逆に畳みかけられて閉口する。

もちろん、すぐに死んでしまう生を無意味だと決めつけることはできない。長く生きるほうをより有意味である、などと思うわけではない。自分の生の無意味さを刹那的に把握したとしても、それを他者に適応することはできない。それがハムスターであっても、勝手に憐れむことはやっぱり違う。うちにやってきたよもぎの短い生が無意味なら、おそらくより長いはずのわたしの生も、いつか死ぬという点において同じだけ無意味なのではないか。

そのように俯瞰すれば、広く人間の生だってシーシュポスの神話のように不条理を繰り返すだけなのだからみな等しく無意味とも言える。そうだろうか。あるいは逆に、よもぎの生に意味を見出すなら、わたしの生にも意味があるように傾きたくなる。みんなにあるものだし、同時にみんなにないものなのではないか。どちらに寄るにしても、わたしは無意味だがあの人の生は有意味、と思って自分だけを置き去りにしたり、あるいは逆の蔑みを他者に向けたりはしたくない。そう考えているつもりでも、ほんとうはどちらも同じくらい難しい。

どんなにいいことがあったって、あるいはどんなにしんどいことが起きたとしても、わたしの価値も意味も目的も動かない。畢竟どう生きたって、自分の人生に満足などできる気がしない。生まれた意味など初めからない。最後までない。厭世的なのかもしれない。でも生きることはたのしくてうれしい。うれしいことを、幸福と呼ぶのは乱暴だと思う。といってふてくされるわけではない。何があってもなくても、いつでも「死んだら終わりじゃん」と思いたくなって、そのたびに夫に諫められる。自分の生が無意味であることと、いまをよいものとして享受することは矛盾しないのだと思う。そうでなければどんなものであっても人生など、とっくにやめたくなっている。

だからいまを見つめよう、と言いたいのではむろんない。いつか死ぬからこそ、いまここでこそ命は輝くのだ、というのもずっとピンとこない。じっと見つめたっていまはいまでしかない。それこそ、そこに特別な意味などないのだから。自分のまなざしが、勝手にいまを意味づける。考えるともなく考えながら、気づけば身体はゆれている。リズムとも言えない不規則な動きのうちに、やはり速すぎる自分の鼓動を意識する。どんなにゆっくり深呼吸しても、さほど速さは変わらない。そこにハムスターのさらに速すぎる心拍を重ねもしない。重ねられるものじゃない。勝手に憐れんだりしてごめん。「出してくれ」とばかりにケージを噛みまくってアピールするよもぎの耳は黒くてひらひらしている。その小さなきくらげみたいな耳を、まじまじと観察している。何にも傾かないこころで、じっと見つめる。

動物のかたちはどれもおもしろくこの世の影をかさねるあそび/丸山るい

(了)

 

 

堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)、連載に「わからなくても近くにいてよ」(だいわlog)、「うちにはひとりのムーミンがいる」(晶文社)がある。

第8回 映したりしない

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

クリスマスイブの午後、M-1の敗者復活戦をのんびり眺めていた。すると夫が「なんか急にバイト登録のメールがめっちゃ届く、何百件も」と言う。いやがらせかも、と。いやがらせ? そんなことわざわざするひとがいるんだろうか。クリスマスなのにものすごい暇じゃん、そのひと。というかそれがいやがらせだとして、そもそも夫に対してそんなあからさまな悪意というか敵意を剥き出しに攻撃してくるひとが存在することに驚く。とにかく、夫のメールアドレスで勝手に登録されたバイト情報がリアルタイムでじゃんじゃん届くらしい。その間にパスワードを変更しても、新たな手段でメールは届きつづける。もう夫はどこかぼんやりとして、せっかく楽しみにしていたのにM-1どころではなさそうだ。

こんなふうに、だれかにはっきりと向けられる悪意というのをものすごく久しぶりに目の当たりにした気がする。夫はすでに「だれがやったんだろう」と疑心暗鬼になっている。やっぱり学生かなぁ。やだなぁ。まあたしかに大人がそんな幼稚なことをするとは考えにくい。学生たちがその場のノリでやった軽いいたずらなのだろうか。あいつうざいよな、とか言い合って。だとすればそのもくろみ通り、目の前の夫は明らかに沈んでいる。そこまで落ち込まなくてもいいのに、と思わなくもないが、自分に「悪意を向けられている」こと自体がどうにも気持ち悪いらしい。

でも、たとえば親しい友人や尊敬しているひとに嫌われる、ということとは全然違う気がする。というか、その場合よりましなのではないか。たとえばちょっと注意や指導をした学生からこうして反撃に遭うというのはある意味で教員の宿命というか、いやそんなくだらないことするなよってあきれるけれど、でも夫がそこまで気落ちしているのに正直すこし驚いたのだった。

わたしの慰めだけでは限界がありそうだったので、とにかく職場でだれかに話を聞いてもらいなよ、と翌日夫を送り出したのだったが、あそこまで食らうものだろうか。そんなにダメージ受けてしまったら相手の思うつぼじゃん。なんかそういうタイトルの本があった気がする。相手のことでこちらがいくら悩んでたって、あいつ今ごろパフェとか食べてるよ、みたいな。でも、そいつが今ごろパフェを食べていたとしても、気にしてしまうのは仕方ない。パフェを食べているなんて想像すればなおさら憎いんじゃないか。でもたぶん、その憎しみを自分だけが抱えているのが損なのだ、という主旨なのだろう。しかも今回は、その相手がだれかすらわからない。

誹謗中傷ってこれがひとつやふたつじゃないってことだから、ほんとうに堪えるのだろう。そう考えれば、知り合いから嫌われたわけじゃないんだからいいじゃん、というわたしの励ましは見当違いだったと気づく。今朝もまだ元気がなかった。そう考えると急に心配になってくる。ひとりで、さらに思いつめていないだろうか。思い立って電話してみると、声は思ったよりむしろ元気そうだ。先輩に話を聞いてもらったらしい。「私だったらぜったい犯人つかまえてぶん殴るね」と真面目に言われたらしく、物騒で笑ってしまう。

いたずら自体は一過性のものだったようで、以来とり立てて動きはない。誰かを特定することはできないし、なんだったんだろうね、嫌だね、とこうして周囲と話して消化するしかない。夫はM-1もっとちゃんと見たかったなー、と言うくらいいまは元気である。

夕方、保育園のお迎えに行くと、担任の先生から「今日はAちゃんとケンカして、叩かれたからって引っ掻き返したらAちゃんの顔けっこう傷いっちゃって」と言われた。うちの子どもがお友だちに怪我をさせてしまったらしい。逆に、ケンカしてここちょっと噛まれちゃいました、引っ掻かれました、と報告を受けことはよくある。けれどそのときに「だれから」と言われることはなかった。もしだれが/だれに、と聞けばお互いややこしくなる、だから基本やってしまったほうにも、やられたほうにも双方名前は言わないルールなのだろうと思っていた。こんなふうに自分の子がやってしまったことを報告されるのは初めてだ。つまり、それはAちゃんの傷がかなり大きいという意味なのではないか。そう察知して気後れがした。あるいは、うちがAちゃん親子とふだんから遊んだり連絡を取っていると知っていて、の報告だったのだろうか。帰り道手を引く子どもはいつも通りけろっとしている。自分が怪我させてしまったなんて、三歳児には自責の念などないと知りながら、けれどこっちは気が気ではない。

どうしよう、と思うそばからひとまずAちゃんのお母さんに連絡した。するとすぐに「傷はあるけど本人も痛がってないし全然気にしないで」と返信があった。でも、もし自分が逆の立場だったらほんとうに「全然気にしないで」なんて言えるだろうか。いや、思えるだろうか。そんなふうに裏をかきたくなって、その思考回路にはまってしまっては何もいいことは起きない、と言い聞かせてぼんやりする。しかも、女の子なのに。そう咄嗟にわたしは思ったのだった。女の子も男の子もないでしょう。だれの顔にも傷が残ってしまうことは、残してしまうことは申し訳ないはずなのに、でもわたしは咄嗟にそう思ってしまった。

翌日、お迎えのときにAちゃんのお母さんと会う。Aちゃんの頬にはやっぱり大きな引っ掻き傷が残っている。うわぁ、Aちゃんごめんね、と言うと、Aちゃんもけろっとしている。「ぜーんぜん」と言うAちゃんのお母さんの言葉と、というよりそのおだやかな表情にちょっと泣きそうになる。そのままふたりがうちに遊びに来てくれた。

子どもたちは、昨日のケンカのことなんてなかったかのように、ふだん通りの様子で遊んでいる。でもわたしはやっぱりまだ申し訳なさでいたたまれない。ケンカってお互いさまだから、と言うAちゃんのお母さんの鷹揚な声が、まっすぐに届く。もちろんケンカなんていくらでもすればいいとは思うけれど、怪我させてしまってはやっぱり話が変わってくる。もちろんそれも含めてお互いさま、と言い合えるのが一番いいのだけれど。

子どもの頃、きょうだい喧嘩ってしました? という話の流れで、「わたし人生で二度しか怒ったことがないんですよね」とAちゃんのお母さんは話す。それもどっちも部活で、大会前の後輩に怒ったって話でもう何年前? しかも怒り慣れてないからか二回とも知恵熱出して寝込んで、とにこにこと話すのを聞いて、きっとほんとうに今回のことは気にしていないのかもしれない、と思う。そのくらいおだやかなひとだから、というよりも、だって何度も「全然気にしてないよ」と言っていた。でもそれは建前で、ほんとうにはどう思っているかどうかなんて、わからない。そう思い込んでわたしはずっと申し訳なさでいっぱいだった。大丈夫だよ、って言ってくれるそのままの言葉を受け取ればいいはずなのに、どうしてもいつも裏を読もうとしてしまう。でも、たぶん、ほんとうに、Aちゃんのお母さんは気にしていない。大丈夫だよ、って思ってくれている。だって表情がそうだった。ほんとうに大丈夫じゃないときには、きっとわたしに伝わるように、違う言葉をかけてくれるはずだ。

どうにも、言外の何かを感じとろうとしてしまう。そして、気づけばそれこそがコミュニケーションだ、とまで思うようになっている。裏をかき合うのがコミュニケーションなんて、なんだかとても貧しい。子どもたちも、Aちゃんのお母さんもすでに気にしていない、としたら自分だけその場で考え込んでいる。そういうことばっかりだな。いいよ、っていうその言葉と表情を受け取ればいいだけなのだ。そして、それはほんとうには、Aちゃんのお母さんに限ったことではないのだと思う。

目の前の相手の表情を、つい盗み見る。わたしに向けられる笑顔に、真顔に、表情以上のなにかを読みとろうとする。そのとき推し量るべき情報というのは表情の背後にもたくさんあるのだろう、と踏んで。けれど、いまはわたしに向けられたひとつの表情と、言葉を受け止める。見つめつづけても暗号が浮かび上がるわけではない。これ以上、何か読み取れるのではない、読み取ろうとしない。それでいいはずなのにな。

だからいっそいやがらせをするなんて、潔い。と言ったらこの一件で心を痛めた夫に悪いのだけど、でもそんな直球の悪意なんてなかなかひとに向けられない。むしろ深く考えていないからできるのだろうか。もう自分のしたことなど忘れて、パフェでも食べているのだろうか。言葉が通じるのだから、思ったことを言えばいいのに、なんて言葉も伝わらないのだろうか。いやがらせって、なんだかものすごくアクロバティックなコミュニケーションではないか。いや、ほんとうにはそれはコミュニケーションとは呼べない。言葉を交わすか、目の前に立って表情を見せるか、そうでないと、だってこちらからは何も返せない。交換できない。けれどきっと、交換などしたくないからそういう手段に出るのだろう。

相手が目の前にいたって、いつも何もわからないのだけど、でも言葉と、その表情をひとまず受け取っている。あるいは自分がどんな表情をしているか、いつもわからない。わからないまま、何かをわたしは渡してしまっている。たぶんいろんな行き違いがあるのだと思う。つねに間違っているかもしれない。でも食い違いこそコミュニケーション、だなんてやっぱり言いたくはない。渡されたものをそのまま受け取ろうとする。たまに間違えておろおろする。それでいい。だってたぶん、ずっとそのくり返しなのだ。

公園のどの池で見るどの鯉もこころを映したりしないから

(了)

 

 

堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)、連載に「わからなくても近くにいてよ」(だいわlog)、「うちにはひとりのムーミンがいる」(晶文社)がある。