第7回 とばされそうな

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

「先月の自分の誕生日に、夫がサプライズでプレゼントをくれたんですけど、それがもう全然趣味じゃない手袋で、なんで手袋? まじでいらない!! って叫びそうになったんです」と話すと、トークのお相手の藤岡みなみさんも、会場のお客さんも笑ってくれた。

でも、夫には夫の言い分があるにはあった。去年の冬、自転車通勤で手が冷たいって言ってたから手袋あるといいかなーって、あとスマホ触ったりするだろうから指先は開いてるのが使いやすいかなって、とそのクソダサ手袋の有用性を夫は語った。でも、趣味じゃない。真っ黒で、手の甲だけ異素材のファーみたいになっているのが余計にダサい。昔、母からもらったプレゼントで同じようなことを思った。こんなダサいの使わないよっ! とフリース素材の雪だるま柄ソックスとハートの湯たんぽをそのときは放り投げたのだったが、いざ寒くなればいそいそとありがたく使った。多分、夫の手袋もそのうち寒さに耐えかねて何食わぬ顔で両手にはめるだろう。そう、お母さんみたい。お母さんからのプレゼントみたい。あったかいよ、便利だよ、と渡される。夫が母みたいなのが、わたしは多分嫌だったのだ。

「誰かと生きて暮らすなかで書くこと」というテーマでトークしていたのだった。そのテーマに沿うならば、そうこれはただの愚痴というよりはむしろ、こうして10年以上一緒にいてもまだまだ自分のことは分かってもらえてないんだなぁという、しみじみした他者性の確認であって、つまり夫とはまだ一緒にいる甲斐があるってもんだなぁ、と思ったってことなんですけど、とわたしは話す。トーク相手の藤岡さんはひとしきり笑った後、「でもわたしも家族からもらったけっこう高額なプレゼント、申し訳ないと思いつつもめちゃくちゃ謝りながら返品してもらったことありますよ」と微笑んでいたので笑ってしまった。

イベントの後は、仕事でお世話になっているひとたちと飲んだ。ふだん個別に連絡は取っていても、こうして集まるのは初めてだった。

お互いの家族の話になったとき、「堀さんは夫さんと似てますよね」と言われた。居合わせたのがたまたま夫に会ったことがあるメンバーなので、みな頷いている。よく言われるんですよね、と数年前の年賀状の写真を見せると「やっぱ似てる」「めっちゃ似てる」「そっくり」と口々に言われる。元々の他人が、ここまで言われるほど顔が似通うってどういうことなのだろう。

飲み会は、書き手と編集者と書店員が集まればもっと出版がらみの話をしたり、文学とは、みたいな高尚な話題にも発展するのかと思っていたが、そんなことはなかった。もっとラフで、20代の頃の飲み会みたいにいい意味でぐだぐだで、気づけばなぜか「浮気はどうか」という話をしている。してもされても別にいい、というひとがおり、コスパ悪くないですか? というひとがいた。序盤ハイペースで飲んだからか、急に酔いが回り顔だけが異様に火照る。冷えたおしぼりを頬にあてながら、浮気はするのもされるのもわたしは嫌だな、と思う。結婚しているから、というより付き合っているときも同じことを思っていた。

酔った勢いで、「わたしは、自分の家を開いておきたいんですよ」と大きな顔をしてしまう。その場にいたうちのふたりがそれぞれうちに泊まってくれたことがあって、という話の流れだった。家って閉じちゃうから、だから色んな人がはるばるうちを訪ねてくれるのがうれしくて、家は常に開いておきたいんですよね、と豪語する。それはいいですね、と同調を得て得意になる自分がいま思えば恥ずかしい。

何が「家を開いておきたい」だ。うちはむしろ閉じている。困っているひととか、誰かれ構わず招き入れるわけでもなく、やってくるのはせいぜい近所の友人か、たまに東京に住むごく親しいひとたち、それくらいなのに。ふだんはこの狭いアパートのドアはぴったり閉じられて、夫とつまらないことで常に揉めている。というか、わたしばかりが夫に文句を垂れて夫を困らせる。

ちょっとした言い争いになっただけで、「もう嫌いになった? いまも好き?」と夫は確認する。こんな些細なことで今さら嫌いになるとか、ないでしょ。もっとわたしたちは深いところで繋がってるでしょ。と当然のように返しながら、なんだろう、深いところって。わたしたちは深いところで繋がっている? 言ってみて違和感がものすごい。わたしたちは、ほんとうにはもっとぺらぺらの、吹けば飛ぶようなひとりとひとりなんじゃないの。

傘もって走るわたしと待つきみの吹けばとばされそうな夫婦だ(雪舟えま)

わたしはだいたい、傘を忘れた夫のもとに走ってゆけるようなやさしさを持ち合わせているだろうか。不安になる。そんなやさしさで接することができたら、そんなの全然「吹けばとぶ」夫婦なんかじゃないはずだ。いや、お互いがお互いにとってひとりきりでしかないような、ふたりでやっとひとりのような夫婦だからこそ、やさしく、そして脆く、吹けばとばされそう、と思うのかもしれない。

今回の上京はくだんのトークイベントと、文学フリマが目的だったが、往路の機内で前の座席からぼんやり見えていた動画を思い出す。キャシー中島と勝野洋が豪華クルーズ船の旅を紹介するものだった。芸能界きってのおしどり夫婦、とのテロップに、おしどり夫婦ってなんだろうな、と思う。誰から見ても仲が良いってことだろうけど、なんだか空虚だ。というかほとんど死語だろう。仲が良いことを、周りがいいですね、と判を押す。押された方はどんな気持ちかなんて考えない。

いまでも、たとえばベビーカーを押して夫と子どもと三人で外に出ると、「家族やってんなあ」と思う。そうだ、わたしは家族をやっている。やらされるでもなく、わたしたちが選んできたことだ。なのに、妙な気持ちになる。ふざけているわけではない。この不思議さはなんなのだろう。

あるいはたまに、友だち夫妻と出かけた際、友人の夫さんと並んで歩くタイミングがあると、傍から見れば夫婦に見えるのかもしれないな、などと思う。そしてそれは、なんだか愉快なことだなと思いもする。夫婦や家族の組み合わせは無限で、たまたま並んで歩いているだけで、周囲からは家族だと認識される。さほど歳のかわらない男女であるだけで、あるいは子どもを連れているだけで。

「おとうさん、おかあさん、おにいちゃん、おねえちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、みんなそろって、しあわせかぞく」という歌がふいに流れてきてぎょっとする。子どもが見ていたつけっぱなしのYouTube動画だった。なんという家父長制、典型的家族観の押しつけ、そして刷り込み。そこに出てくるのが人間ではなく、ねこだからっていいわけではない。こういうものを無意識に取り込んで家族というものを鵜呑みにしてしまうのだろう。みんなそろってしあわせかぞく、ってところがどうもこわい。揃わなければ幸せでないとでもいうのだろうか。

東京から帰ってつかの間、子どもを発端に、家族全員インフルエンザに罹ってしまった。仕事に復帰して「いやー家族全員罹っちゃって」と話すとそれは大変でしたね、と労われる。狭い寝室でみんなが揃って咳をして、洟をかみ、なんとまあ仲良しなこと、と思う。みんなそろって、しあわせかぞく。あのメロディが聞こえてきてぞっとする。

「家族をやっている」ことを後ろめたく思ってしまうのはなぜだろう、けれどどうしても手放したくないと思うのはなぜだろう。わたしは、ほんとうには何がいったい、大切なのだろう。

わたしが必死になって守るものではないのかもしれない。いくらふたりの手を握りしめても、子どもはすぐに目移りしてどこかへ駆けていってしまうし、夫だっていつまでもぴったりくっついているわけではない。わたしたちは、ほんとうにはバラバラで、一個一個で、全然違うんだから。そんなこともわからないの、と言われてしまいそう。誰にだろう。誰に言われるのだろう。でもどうしても忘れてしまう。家族でひとつなのではない。ひとりがひとりずつなのだ。いま、この家に一緒に暮らしていて、一番コミュニケーションをはかるひとたち。わたしはふたりを大切だと思っていて、そのことに、血まなこになることはない。ばらばらのまま一緒にいればいいじゃない、と思う。もしも一緒にいたくなくなったら、どうするのだろう、もっと一緒にいたいひとが現れてしまったら、どうしたらいいのだろう。そう嘆くとき、夫はいつも落ち着いている。そんなことにならないよ、なんて嘘みたいなことを言う。うそだ、と喚くと、じゃあそのとき、そうなったときに考えればいいよ、となんでもないような顔をして見せる。

わたしはこうしていつまでも、ぐるぐる同じことをいろんな角度から眺めては腕を組んで首をひねっている気がする。こんなにも、違うから一緒にいるんだろうか。わたしたちは傍から見ればいつの間にか顔まで似通って、けれどほんとうには全然違って。違うよ、あなたとはほんとうには全然似ていない。「ちゃんと好き?」と訊いてくる夫のことを、わたしはほんとうにはわからない。好きに決まってんじゃん。何年一緒にいると思ってんの。でもわからなくなるからばかみたいに確認し合っている。死にかけのロマンティック・ラブをまだまだやりつづけようとする。三人揃ってしあわせそうなわたしたちは、ほんとうには脆い。吹けばたちまちとばされる。家族はもっと剥き出しで吹きさらしで、立ちゆかず、周りばかりが上手くいっているように思えてしまう。

しあわせかぞくなんてどこにもいない。ひとりひとりがいるだけで、ほんとうにはばらばらで、ばらばらに色んなことを考えている。それだって、家族に限ったことではない。知らないだけで、みんなそれぞれに、色んなことがある。話さないだけで、色んなことを考えている。めちゃくちゃ当たり前のことを、なんで何度でも忘れてしまうのだろう。

つい、わかったつもりになってしまう。あまりに近いひとだから。わたしの趣味くらい、わかるでしょうと思っている。そんなダサイ手袋ほしくないよ。それなら図書カードでよかったよ。スタバのカードでもいいよ。ってゆーか自分で選ぶから何もいらない、って言ったじゃん。そう畳みかけるように夫をなじって、しょんぼりさせる。でも、わたしはうれしかった。めっちゃ他者だ、まだまだ他者だ。どこまでも他者だ。どんなに似てるって言われても、わたしたちは全然違う。おまけに子どもも最近「パパにそっくり」なんて言われる。あはは、そんなに似てますかね。みんなそろってしあわせかぞく。いやいや。うそだよ。そんなのないんだよ。ばらばらで、みんな吹けばとんでしまうくらい、ほんとうは脆い。壊れそうになるたびに何度も修復して風雨に耐えて、もうそのたびにぎりぎりで。でもそんなことないよ、って顔をしているだけで。

手をつないで 正しくは手袋と手袋をつないで ツナ缶を買って海へ(柴田葵)

(了)

 

堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)、連載に「わからなくても近くにいてよ」(だいわlog)、「うちにはひとりのムーミンがいる」(晶文社)がある。

第6回 はらはら落ちる

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

子どもがTシャツの首元から片方の肩をずるっと出して「ねえ、ここになんか入ってる」と言う。かたいんだけど。「それは骨だよ」「ほね?」「うん」「ほねはなにするの?」

「◯◯はなにするの?」がもっぱら最近の口ぐせだ。意味とか、存在意義を何に対しても確認したがる。「骨はね、というか骨がないとね、ぐにゃぐにゃで動けないの。たこさんみたいになっちゃうの」と言うと、ふーん。とわかったのかどうか、ふしぎそうな顔でまだ自分の肩をぐりぐり触れている。

自分の身体のなかに、なんだか固いものが埋め込まれている、と子どもは思っている。ここにもあるし、こっちにもあるね。と腕や膝を触る。ママにもあるね。あるよ、ママのはもっと大きいよ。

骨より先にまず心臓がつくられる、ということは妊娠してから知った。というかそんなこと、考えたこともなかった。病院でまず心拍を確認する。ただ点滅するその頼りない粒のようなものに、やがて背骨が通る。その途方もない細胞分裂の果てに、子どもはいま自分の骨のふしぎを確かめている。

夜、布団に入ろうとすると、夫が「あ、そうだ」と台所に引き返し、すぐにまた戻ってきた。何か口に入っている。え、なんか食べてる? と訊くと「氷砂糖」と言う。そしてそのまま「おやすみ」と布団をかぶってしまった。から、ころ、と氷砂糖を口のなかで転がす音が布団を隔ててかすかに聞こえる。せっかく歯磨いたのにやめなよと言うが、返事がない。ついさっき、寝る前にチョコが食べたいとわめいた子どもに「食べてもいいけど、いつもの倍歯磨きしなきゃだめだよ」なんて言ったくせに、自分は眠りながら氷砂糖を舐めるとは。ずいぶん都合がいいもんだ、というかシンプルに虫歯になっても知らないよ、と思う。

「でも歯ってさあ、どうせ生え変わるならだいたいいまくらいの30代とかで一新したほうがいいのにね」と、もう寝ているのか、聞いているかどうかわからない夫に話しかける。子どもの乳歯に虫歯を作らせまい、と毎晩歯磨きを死ぬほど嫌がるのを追いかけながら、よくそう思う。

歯が抜ける夢をよくみる ぱらぱらと さういふふうに降る天気雨(睦月都)

10歳そこらで生え変わってから、70年とかあるいは長く生きた分、ずっとその歯を大事に使い続けないといけないなんてけっこう大変じゃないか。もしいま抜けてしまったらそれは永久歯だから、代わりは生えてくることはない。それならだいたい寿命の折り返し地点で生え変わったほうがよさそうだ。夢のなかで抜ける歯は、いつもかんたんに、それこそ天気雨のようにぱらぱらと落ちていく。抜けた歯が天気雨のようで、天気雨が夢のなかでこぼれる歯のようで、どこかあっけらかんとしている。

そもそも、わたしは「歯が生え変わる」という事実がいまでも端的に気持ち悪い。

こうして生え揃っている歯も、当たり前だが元々あった乳歯が全部抜けて生えてきたのだった。初めて前歯が抜けて、やけにすーすーして落ち着かず、その穴に舌を沿わせていたことはよく覚えている。けれどそれ以降の記憶はあいまいで、同じようにすべての歯が抜けてまた生えてきたなんて、なんだか信じられない。だいたい6〜12歳にかけてすべての歯が生え変わるらしいが、それはつまりほぼ小学生の間ということになる。

でも、たとえば教室にだれかの歯が落ちている、なんてことはこれまで一度もなかった。先生が「今日も歯の落とし物です」とちいさなその歯をつまんでこちらに見せることもなかった。そこにいたすべての子どもの20数本の歯が生え変わるのだから、学校のどこかにひとつやふたつ、転がっていたってふしぎではない。ふいに抜けてしまった歯を、みんなどうしていたのだろう。ティッシュでくるんで大事にランドセルにしまっていたのだろうか。授業中に「先生、歯が抜けました」みたいな出来事も、もしかするとあったのだろうか。あったのかもしれない。けれどなぜだかぜんぜん覚えていない。

一生に一度歯が生え変わることを、二生歯性と呼ぶらしい。歯のことを考えはじめたら眠れなくなって、スマホで調べた。ちなみにサメは数日単位で歯がどんどん入れ替わって、生涯で2万本以上の歯が生え変わる多生歯性、らしい。

夫に思わず伝えると、
「じゃあ海底にはいまもサメの歯がたくさん沈んでるんだね」なんて半分寝ながらロマンチックふうなことを言ってきた。でもそんなこと言ったら、海底には歯どころかさまざまな魚の骨が積もっている。砂浜にだってそれらが混じっているかもしれない。

 われにある二十の鱗すなはち爪やはらかに研ぎゐるゆふべ(睦月都)

骨が身体に埋まっていることを心底ふしぎがる子どもに、いまある歯はそのうち抜けて新しいのが生えてくるんだよ、と教えたらさぞかし驚くだろう。信じないかもしれない。大人になったってこんなに解せないのだから。身体のあれこれについて、普段は見過ごしているけれどほんとうはふしぎ、と思うことはいくらでもある。爪だって、たしかにふしぎだ。形も大きさも質感も、そう思えばもう鱗そのもののような気がしてくる。そんなものがわたしたちの指先には張りついている。以前、妹にジェルネイルというのを施してもらったことがあったが、力が加わってぽろっと剥がれたうす紫のそれは、まさに一枚の鱗だった。わたしたちの鱗はすこしずつ伸びるから、この一首のように研いだり切り揃えたりする必要がある。

「そうなっている」としか言いようがない。

実家にいた頃、たまたま床に落ちていた猫のヒゲが太くて、しげしげと見入ってしまったことがある。なんとなく捨てるのも憚られて、すると母に「お財布に入れるといいよ」と言われたが、縁起でもいいのだったか。猫の髭は感覚を司るセンサーのようなもの、と聞いたことがあったが、あんなに太いのが抜けてしまって大丈夫なのか。けれどまたすぐに新しいのが生えてきた。人間の髪もそうだ。毛先から伸びるものとばかり思っていたら、根元から生えると知ったのはいつだったか。だから毛根が大事なのか。怪我をしたら血が出るし、出てくるその血は赤い。赤くて、でもそのうちちゃんと止まってくれる。代謝ってものがある。汗をかいたりする。汗をかくには毛穴が要る。ごく微量でもわたしたちの体調や感情を左右するホルモンは未知すぎる。そして心臓は、いまも休まずに動き続けている。

ひとつひとつ、どれだけ合目的的で精巧なのだろう、と感心する。子どもの顎では小さくて想定の本数は収まらないから、ある程度成長した段で歯を生え変わらせる、なんてほんとうによく考えられている。これが有機体ってやつか。そういえば、わたしは生まれつき腎臓がひとつしかないが、それでもいまのところ元気に過ごしているから、そういう雑さでも案外いける、というのもまたふしぎだ。緻密で精巧で、見えないところは案外雑で、こんなのだれが考えたんだよ、と思う。

だから、なんで死ぬってことに決めたんですか、と訊きたい。訊きたい、と思うその宛先にはぼんやり創造主みたいなものを想定する。みんないつか死ぬなんて、いつ死ぬかわからないでいまを生きているだなんて、なんでそんなふうに決めちゃったんですか、と思う。そんなの、あまりに意味不明じゃないですか。わたしたちのこの歯は。骨はどうなるんですか。こんなにうまくできてるのに。こんなに精巧なのに。おまけに頑丈。そっか、歯も骨も残るんだよな、と思う。死んで、燃やしたって残るんだ。ますます滑稽だ。めちゃくちゃに燃やして、脆くなったそれを砕いて大事に持って帰る。そのときには骨も歯ももう一緒くたで、というかそれはもう粉で。そうか、骨になる、っていうより粉になるのか。わたしたちは丁寧に、時間をかけて粉になる。その事実について、いったいどんな感情でいればよいのだろう。

翌朝、夫が「ねえ、サメの歯が海底にたくさん沈んでるってすごいロマンチックじゃない?」と起きぬけに言う。昨夜寝言でつぶやいたことを覚えていたらしい。えーなんか陳腐じゃない? それよりわたしは校庭のあちこちに子どもたちの乳歯がたくさん散らばっている光景を想像する。もうこれまでに抜けた自分の乳歯がどこにあるのかなんて、わからない。というか、わたしたちは髪も爪も、自分の身体の一部をはらはら落としながら、生きている。秋の朝のひかりと一緒にそれらを掃除機で吸い込んで、けれどなんとも思わない。歯や骨が最後まで残る滑稽さは、やっぱり解せない。

はなびらをひろい集めて花とするようにいびつな人体模型(塚田千束)

(了)

堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)、連載に「わからなくても近くにいてよ」(だいわlog)、「うちにはひとりのムーミンがいる」(晶文社)がある。