第5回 分人と間人と

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第5回は、西洋の個人主義に対峙する概念として唱えられた日本的人間観「間人主義」についての考察から。

 

そもそも、分人という発想は、一九七〇~八〇年代に提唱された「間人」という概念を容易に連想させる。いまや論壇から忘れ去られた過去の遺物を通して眺めると、「分人」はかつてのアイディアの焼き直しにすぎないようにさえみえてくる。

間人とは、社会学者の浜口恵俊が『「日本らしさ」の再発見』や『間人主義の社会 日本』などの著作を中心にして唱えた西洋近代の個人主義に代わる日本的人間観の抽出概念である。

その意味するところは、ちょうど個人主義と対になる。つまり、自己中心的かつ他者不信的で、対人関係を手段視する西洋の個人主義とは違って、相互依存的で他者信頼的、対人関係を目的視するのが間人主義である。

浜口の議論の特徴は、ベネディクト『菊と刀』から始まる戦後日本文化論において支配的だった西洋モデルとの比較から、集団主義や自我の未確立性といった消極的評価を反転させ、それらネガティブに表象されていた特性をいっぺんに「日本らしさ」の自律性として再評価しようとするところにある。

日本における個人主義の未熟は、欠陥を表しているのではなく、個人主義の限界の先にある間人主義の姿にほかならない。人間という字は、単なる人ではなく、ジンカン(人の間)と書く。個人として独立する前に、対人関係のなかでこそ成立するのが東洋的人間モデルなのだ。

こういった言説の価値転倒的戦略は、分人主義のアピールにおいても多かれ少なかれ用いられたことは繰り返さない。思えば、間人主義とほぼ同時期、消費社会を肯定するなかで生まれた、個人の一貫性と単一信条の帰依を超えて成立している山崎正和の「柔らかい個人主義」概念に、鈴木健の「なめらか」の先駆をみることはこじつけが過ぎるだろうか? 

コンテクストの国民性

興味深いのは、浜口は間人を英訳するにあたって「the contextual」、直訳すれば文脈人という意味の英単語をあてている点だ。

浜口を高く評価し、『「日本らしさ」の再発見』文庫版の解説を担当した社会学者の公文俊平によれば、「間人」の訳語を考えていたとき、アメリカの文化人類学者、エドワード・ホールの『文化を超えて』をめくり、そこで「コンテクスト」という言葉に出会い、その語を浜口に献呈した。そのような経緯を回想している。

ホールはその著作のなかで、文化の一つの機能として「スクリーン」を挙げた。文化という色のついた幕によって、なにに注目してなにを無視したらいいのか、大雑把な認識の輪郭が指示される。これにより、人は世界を有意味な構造として捉え、情報の過剰から身を守ることができる。コンテクストとは、「過剰」を縮減する情報処理の必要から要請されるものだ。情報をスクリーニングする。

ただし、このスクリーン機能を持つコンテクストは、地域によって濃淡がある。つまり、諸々の地域の文化は、コンテクストという尺度を介したとき、ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の二種類に分けることができる。前者は身体の振る舞いや雰囲気や常識といった非言語的な前提によって情報が選別されることで、言語による明確な意志表明や自己主張が必要なくなる。対して、後者はそのように拠りかかることのできる強い前提(文脈)を当てにできないためコミュニケーションはそのつど明文化・明言化を強いられることになる。

当然、公文や浜口は、日本的コミュニケーションをハイコンテクスト文化、高文脈的な国民性として解釈している。このことはホールの意図とも反していない。なぜならば、ハイコンテクスト文化の代表例として第一に出てくるのが、日本滞在中に泊まった宿屋に関する著者自身の体験談であるからだ。

こういった文脈依存性は、間人主義がもっている周囲の変化に臨機応変に対応する「状況倫理」的性格もあいまって、自然、山本七平の「空気の支配」を彷彿とさせる。そう、赤木智弘に敵意の深読みを強制し、『エンジョイ』に登場するフリーターが「直接言われてないのに直接言われた風に、勝手に、先読みっていうか、深読みっていうか、先走り」させてしまう大きな原因だったものだ。

日本的「誰でもない」?

無論、分人が複数の分割的な「私」に軸足があるのに対して、間人は文脈の変化に即応する可変的な「私」を見出しており、その強調点には相違がある。しかし、いずれの思想も西洋由来の個人主義の閉塞を突破できる希望が託されていることは見逃せない。

指摘したいのは次のようなことだ。分人であれ間人であれ、それらはしばしば西洋との比較で劣位に評される日本的「誰でもない」をあえて優位のものに転倒しようとする言説のカウンター的産物という性格をもつが、これは単なる表象操作に留まるが故に、依然として多くのフリーターたちが感じる雰囲気的な重圧や、「無責任の体系」の放置状態に対してなんの手当もしない、ということだ。

日本的「誰でもない」、と書いた。これは厳密な言い方ではない。分人も間人も、複数の他者とのコミュニケーションに対応した「誰」の複数化であり、「誰」の過剰に他ならない。にも拘らず、結果的には、これがあたかも「誰でもない」の無責任と同様に機能するように見えるのは、身体によって区別された一個体性に対応する単一の「誰」の確定を拒否して、複数の「誰」の併用、その成り代わりを許すようにみえるからだ。

つまり、責任主体を見つけ出そうとすると、「誰」が分散し、また文脈に融け込んで、最終的には「空気」が悪かった、という口実を与えてしまうのだ。

あるときは日本的という形容動詞とともに世界標準から落ちこぼれたその特徴が鋭く批判され、またあるときは同じく日本独自という理由によってそれが称揚される。形容動詞のバリエーションに近代的/脱近代的(前近代的)をつけ加えてもいい。

このシーソーのような言説の蓄積が、――繰り返すが現実の日本を正確に写し取っているかどうかではなく――日本(人)を論じるときのコンテクストになっていることを確認したとき、あたかもすべてが言葉遊びだったかのように、同じ円をくるくる回っているかのような閉塞した徒労を感じる。

この閉塞感を突破することは果たして可能なのだろうか?

回帰するフィクション

視角を転じよう。

分人主義者の指摘を待つまでもなく、責任というものが社会に応じて構築されたフィクション(虚構)であることは、小坂井敏晶の著作、その名も『責任という虚構』を読めば、そういった筋の主張を理解することは難しくない。

ホロコーストという集団凶悪犯罪や死刑制度の欠陥など、多様な例示のなかで、小坂井は、自己同一性や自由意志とともに責任とは社会的に生み出される虚構であり、揺るぎない根拠がなくては生活できない人間共同体の必要に従っているだけだ、と主張する。「自由だから責任が発生するのではない。逆に我々は責任者を見つけなければならないから、つまり事件のけじめをつける必要があるから行為者を自由だと社会が宣言するのである」。一事が万事、社会的虚構が私たちの生活を統べている。

小坂井の前著が『民族という虚構』という題名をもつことからも推察される通り、彼の議論の大半は、私たちが物理法則のように信憑している制度を、社会的構築物として読み直し、その構築のカラクリを明らかにしようとするものである。

けれども、少しばかり見方を変えて、ここまでの議論をやや俯瞰してみると、改めて痛感されるのは、個人であれ責任であれ、社会構築主義的批判――〇〇は或る時期の社会が造ったものにすぎない、××は近代以前にはなかった――をどれほど徹底させたとしても、なおしつこく回帰してくるフィクションのしぶとさである。

私たちが、普段信憑しているもののほとんどは、フィクションであり、故に相対化可能であるが、どのように組み替えたとしてもフィクションそのものに依存する構造自体は長らく変わらなかった。小坂井の著作を裏から読めば、このような教訓を得ることも決して誤読とはいえない。

マルクスの宗教批判を思い出そう。マルクスは、宗教とは「民衆の阿片である」という言葉を残したが、だからといって宗教を直接攻撃すればそれで問題が解決するとは考えなかった。なぜならば、宗教にすがる信者たちは、依存せねばならない現実的な悲惨に直面しており、宗教とはその現実への抗議の表現にほかならないからだ。

宗教の夢物語は確かに現実の諸困難に連絡している。嘘と暴いたからといって克服することはできない。これはフィクションについても同断だ。

フィクションが抗争する場

分人的・間人的コミュニケーションをどれほど繰り返そうと、核となる独立した「私」の幻想を社会から追い払うことはできない。また、ここに附帯するような責任概念についても、そう。その捏造的カラクリを仮に得心したとして、一般的な無効を宣言することはできない。

ただし同じことは逆からもいえる。一見、身体によって区別された個体性は個人の絶対的な単位であるように思えるものの、日本の言説は間人主義や分人主義のように、その単位を相対化するようなフィクションを繰り返し上書きすることで、「私」の安定した表象を常に乱そうとするクセがある。

単一の「私」は絶対に捨てられないが、とはいえ(それが「日本」的かどうかは措いても)その場の状況に融けていく「私」という考え方にも確かな説得力と実感がある。責任主体を立ち上げるべきだと思う、のと同じくらい、それが「無責任の体系」に四散してしまう予感も抱く。言説を俯瞰したときにみえてくるのは、この中途半端などっちつかずさである。

次のことを確認しておくべきだろう。つまり、日本的言説は、歴史的にみて「誰」に関する諸フィクションが抗争する場であり、第一のものの勝利によって争いが決着することはない、ということだ。重要なのは、未決着状態が日本独自のものかどうかということではなく(おそらくは違う)、あるフィクションの支配/他のフィクションの放逐を目指そうとしても――つまりは個人主義を徹底させようとしても、逆に分人主義を徹底させようとしても――必ず失敗する、その構造性を自覚せねばならないということだ。

そもそも、誰/でもないをめぐるフィクションの力は、単なる道徳的(無)責任性においてだけ発揮されてきたわけではない。共同体秩序の都合という観点以外に、フィクションに拠りかかることで自身を鼓舞して行動へと駆り立てる、積極的なエンパワメントが確かにある。閉塞感を突破できるかどうかは分からないが、いずれにせよ日常に浸透するフィクションの効力を無視することはできない。

 


参考文献

  • 小坂井敏晶『責任という虚構』、東京大学出版会、二〇〇八年。とりわけ、一五七頁。
  • 浜口恵俊『「日本らしさ」の再発見』、講談社学術文庫、一九八八年。とりわけ、三三〇頁、三三八頁。もとの単行本は日本経済新聞社、一九七七年。
  • ホール、エドワード・T『文化を超えて』、岩田慶治+谷泰訳、TBSブリタニカ、一九七九年。とりわけ、一〇二頁。原著は一九七六年。
  • マルクス、カール「ヘーゲル法哲学批判序説」、『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』、城塚登訳、岩波文庫、一九七四年。とりわけ、七二頁。
  • 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生――消費社会の美学』、中公文庫、一九八七年。もとの単行本は中央公論社、一九八四年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo

第4回 ポスト個人主義の無責任?

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第4回は、平野啓一郎、鈴木健が唱える「分人主義」の検証。

 

しかし、『エンジョイ』が示唆していたように、「空気」が交代可能なものだと分かったとして、このことは根本的な解決をもたらしはしない。単に「空気」に対して「水を差す」だけの行為に等しい。

正しく、山本七平は「空気」の対語として「水」を挙げていた。「水を差す」の用例で分かるように、「水」はノッペリと広がる一辺倒の雰囲気に抗う異見=異物として存在する。「空気」の盛り上がりは、現実から遊離した状況を生み出すが、一旦彼らが置かれている実際の現状を報告してやれば、一気に現実へと引き戻される。山本はこれを「通常性」という言葉でも理解している。

ただし、興味深いことに山本は、「空気」に対する「水」のツッコミによってでは「空気の支配」を脱することができない、と随所で仄めかしていた。

客観的状況に立脚する「水=通常性」の倫理は、「あの状況ではああするのが正しいが、この状況ではこうするのが正しい」といった、状況対応的な命令に堕している。このリアリズムの背面で語られているのは、間違っているのは状況(状況を作り出した連中)の方であって、その責任は自分にはない、という「自己無謬性」や「無責任性」である。

たとえば、カント倫理学のように、ある行為が超越的な道徳律に準じるか否かなどという審級は、ここではもはや問題にならない。

状況次第の「水」的倫理は、だから個人の自由な思考を許すものではない。「この『水』とはいわば『現実』であり、現実とはわれわれが生きている『通常性』であり、この通常性がまた『空気』醸成の基である」。「水」は結局のところ新たな「空気」に回収されて終わるのだ。

間違え続けの財産

丸山眞男とはやや異なる道筋をたどりながら、山本もまた日本的「無責任の体系」に直面している。これに対する山本の処方箋は、「あらゆる拘束を自らの意志で断ち切った『思考の自由』と、それに基づく模索だけ」という、現状分析の精緻さに比べややボヤけた印象を与える努力目標である。

しかし、そもそも、そのような「自らの意志」が消失しやすいからこそ、体系化した無責任が連帯の名の下に闊歩して、ときに「自己責任」語りを介して自らの免責を確保しようとするのではないか。

山本が念頭においているだろう、自分の頭で考える自律した近代的主体のモデル、より簡潔にいえば個人主義こそ、日本に根づかなかった最大の思想であることは、歴代の様々な日本文化論が喧伝してきたことだ。堂々巡りである。

無論、ここで小谷野敦『日本文化論のインチキ』を引き、そもそも日本文化を特殊とするような言説の多くは学問的な手続きにおいて誤っている――たとえば比較対象が西洋近代でしかない、たとえば検討されている日本人なるものがエリートに限定されている、等々――、と切り捨てて議論を終わらせることもできなくはない。

しかし、少なくとも、次のことは考えていい。即ち、日本が現実に世界から見て特殊であろうが一般的であろうが、表象の次元においてはポジティブであれネガティブであれ特殊化に関する言説の歴史があり、その枠組みの参照が延々反復されてきた、という事実だ。

仮にその反復性の構造自体もまた、近代国家一般に認められる特徴だったとしても、その具体的な内容は他に替え難いはずだ。青木保『「日本文化論」の変容』や船曳建夫『「日本人論」再考』など、日本文化論の系譜を歴史的に読み直すこと、つまりメタ日本文化論(日本文化論・論)の功績はそのような姿勢から生まれた。

すべてが間違っているのだとしても、間違え続けた歴史は大きな財産である。そして、訂正を介してもなお、その反復が継続されて現在に至ることを、とりあえずの現状分析としなければならない。

平野啓一郎の「分人主義」

個人主義という舶来品に対する日本人の違和感を逆手にとったのが、二〇一〇年代以降、しばしば注目される「分人」という概念だ。「分人 dividual」とは、「個人 individual」の変形概念であり、これ以上もう分割‐できないもの(in-dividual)としての自我観を拒否し、「私」は独立して存在しているのではなく複数のキャラクターやモードの複合によって成り立っている、という前提に基づいたフレキシブルな自我像である。

分人主義者の一人、小説家の平野啓一郎は『私とはなにか』のなかで、他者とのコミュニケーションや関係性において自分というものが自在に変容すること――クラスメイトに対する自分、両親に対する自分、恋人に対する自分――に注目して、「本当の自分」という観念には実体がなく、存在しているのは分人だけだと主張する。

平野によれば、「本当の自分」の強要は西洋の一神教に由来しており、その支配から外れる分人言説は広義での日本文化論を再生産しているといえる。端から一神教と距離のあった日本人にとって分人の発想は決して不自然なものではない。

複数の自分を統べる、核となる「本当の自分」に囚われてしまうと、「自分探しの旅」で徒労を味わい、過剰な同一性への執着が翻ってアイデンティティ・クライシスを帰結させる。ならば、核への信仰など捨て、ポートフォリオを組むように分割された諸人格で「私」をリスクヘッジすべきなのではないか。「他者を必要としない『本当の自分』というのは、人間を隔離する檻である」。以上のことを平野は自身の書いてきた小説作品、とりわけ『決壊』と『ドーン』という二つの大作を自己解説しながら問題提起している。

このように主張する論者にとって、個人が犯した犯罪行為の責任はどのように果たされるべきなのか。その答え方は錯綜しているようにみえる。

赤ん坊は様々な他者と対面しながら「分人化」のなかで成長する。故に、成長した少年が殺人を犯したとしても、「犯罪の責任の半分は、やはり社会の側にある」と平野は指摘する。責任も分散化すべきである――なぜ半分なのか? 三分の一や五分の四でないのはなぜなのか? という疑問は横におくとしても――。

ただ、次の頁を捲ると、この主張と矛盾するような文言に出会う。つまり、個人とは「(もうこれ以上)分けられない」ものであるが、「(もうこれ以上)」に注目するのなら、「他者とは明確に分けられ」、「だからこそ、義務や責任の独立した主体とされる」。よって、「罪を犯せば、それはやはりあなたがしたことで、他の人間は無関係である」と結論づけられる。

疑問が残る考え方だ。もし「分人化」の原動力が、孤独ではなく様々な他者とのコミュニケーションにあるのならば、個人の犯罪の責任を考量する上で「他の人間は無関係」とはいえないはずだ。逆に、「他の人間は無関係」な主体を設定してよいのならば、分人概念の背後にはやはり核となる「本当の自分」が鎮座していることを意味している。

平野の分人主義は明らかにこの困難を克服できていない。

鈴木健の「分人民主主義」

もう一人の分人概念の使用者、鈴木健はどうだったか。鈴木は『なめらかな社会とその敵』という書物のなかで、分人に基礎づけられた、新しい「なめらかな」未来社会を構想している。

たとえば、近代の選挙制度では個人に一人一票が与えられ、相応しいと思える候補者一人に投票を行う。しかし、分人を前提にした原理からすれば、その一人の単位を絶対視せず、票の分割や他の投票者への委託といったかたちで意志の「なめらかな」多元性を認めなければならない。「強い個人」を前提にしない新しい民主主義、それが鈴木のいう「分人民主主義 Divicracy」だ。

だからこそ鈴木が、冒頭部で第一に責任概念に言及していることは興味深い。鈴木は簡単に帰責対象を見出せないような複雑系の社会のなかで、責任なるものが、やはりスケープゴートとして働くフィクションであることを強調し、「責任をとらせようとすればするほど、誰も責任をとらせなくてもよいような社会制度が生まれてしまう」パラドックスに注意を促している。

解決の道筋は、潔くすべての責任を負うヒロイックな個人への期待を捨て、分人がそうであったように、「今まで負ってきた責任を分散化させることによって、国家や個人を楽にしてあげること」にある。「なめらか」とは、いままで壁のように自他を区別していた境界を透過性の高い膜に替えることで、我がことを世のこととして、世のことを我がこととして捉えようとするアイディアである。こうして「なめらかな社会」において所有の観念は、私有でもなく公有でもなく、共有へと交代していく。

故に、この本の「あとがき」にはクリシェとしてしばしば繰り返される著者責任を斥けるような文言が記されている。「本書の責任は著者の私にあるというのが、よくある表現なのだが、どうも納得がいかない。ここで名前を挙げたみなさんも、挙げられなかった方々にも、本書の内容には少しずつ責任をもっていただこうと思う」。

体系が反転する?

分人主義者は、「無責任の体系」の困難に突き当たっているようにみえる。

平野の場合は、無責任に堕落する危険を素早く察知したためか、「義務や責任の独立した主体」を切り崩すことはせず、帰責先となる旧来からの近代的主体を保守的に温存している。

だが、その振る舞いは、「分人」なるものが所詮はコミュニケーションの多元性を称揚するプロパガンダでしかなく、その多元を束ねることができる強力な自己の幻想の強化に終わっている。

他方、鈴木は「無責任の体系」に対する危機感を明確に意識しつつ、逆に「分人」の発想が、独特の責任意識の達成に通じている、と考えているようだ。

たとえば、鈴木が指摘するに「多くの日本人にとっては、政府とは責任を押しつけるべき対象の他人でしかない」。俗にいう、お任せ民主主義である。このような無責任の態度を転回させるためには、「私たちの政府なのだ」という自覚が必須である。

これを調達するためには、個人を標準とした間接民主主義の年一回の選挙などではなく、分人として日常的に細かに参加できる直接民主主義的な制度でその感覚を涵養せねばならない。

いわば、「無責任の体系」を分人的ネットワークを介して、責任の体系に反転させることに、鈴木の企図があるといえよう。しかし、依然としてその事態が、北田暁大のいう「責任のインフレーション」との危うい背面で成立している点は注意しておいていいだろう。

鈴木は責任問題の厄介さを回避するため、個人に紐づけられた責任概念がそもそも失効してしまうような新しい環境=社会システムを構想している。

断っておけば政治制度の観点において、この未来像には大きな期待を寄せることができる。けれども、倫理的な観点からみて、たとえば平野的な論題に十分応答することができるかは疑問だ。分人が殺人を犯したとして、その罪は誰に帰せればよいのだろうか。分人民主主義の問題圏はその埒外にあり、おそらくは鈴木もまた、身体の個別性によって輪郭づけられた個人の観念を脱却しようとはしないだろう。

丸山や山本からみれば、分人主義者は個人主義の根づかない日本の無責任体制を、世界的に先駆するポスト個人の思想として読み直しているに等しい。けれども、分人は、他人が集うその場の「空気」を読むことにだけ必死で、自分の頭で考えようとしないポピュリストに堕落し、あまつさえそれに居直る危険がある。

近代の幻想にいつまでもしがみつく頑固者からみれば、そのように評価されてもおかしくないだろう。


参考文献

  • 青木保『「日本文化論」の変容――戦後日本の文化とアイデンティティー』、中公文庫、一九九九年。もとの単行本は中央公論社、一九九〇年。
  • 小谷野敦『日本文化論のインチキ』、幻冬舎新書、二〇一〇年。
  • 鈴木健『なめらかな社会とその――PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』、勁草書房、二〇一三年。とりわけ、二九頁、四三頁、二二四頁、二五四頁。
  • 船曳建夫『「日本人論」再考』、講談社学術文庫、二〇一〇年。もとの単行本は、日本放送出版協会、二〇〇三年。
  • 平野啓一郎『私とはなにか――「個人」から「分人」へ』、講談社現代新書、二〇一二年。とりわけ、九八頁、一六二~一六四頁。
  • 山本七平『「空気」の研究』、文春文庫、一九八三年。とりわけ、一一二頁、一六九頁、一七二頁。もとの単行本は文藝春秋、一九七七年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo