第17回 ロールズとヴェール的匿名性

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第17回は、ジョン・ロールズの思考実験「無知のヴェール」を手がかりに導かれる、ヴェール的匿名性の可能性について。

第三の匿名性には、ペルソナにもノッペラボウにも吞み込まれない特性を人工的に与えなければならない。これを獲得することで両極からの距離を確保した誰でもない私に立脚できる。

第一に、それは与えられた社会的役割や自分(と自分が属す共同体)が経てきた歴史を一旦、無いものにする力をもたねばならない。

公的領域に出るためのドレスコードであるペルソナは、「誰」を露呈させるために「何」の助力を必要としており、また各人のアイデンティティの根幹を司るような肉づきの面を示す一方で歴史的な別の誰かの死面にも見える、パラドキシカルなものであった。

本来、ペルソナは「誰でもない」を介して「誰」に向かう前座にすぎない。けれども、ここにある曖昧さは、真打の登場を待たずして、社会や組織を動かすだけの歯車へと、また歴史=物語上の偉人の陰に隠れたモブへと転化してしまう大きな落とし穴をもっている。

そのような役割的または歴史的なポジショナリティを解除して、どのような「何」でもない自分自身を反省することで、装着したペルソナがつないでいるはずの連絡線を、切れていないかどうか、ほつれていないかどうか、見直すことができる。

第二に、ポジショナリティを解除するにも拘らず、私はどこまでも独立した私であり、他者と融解してしまうような全体的=総計的処理に追従してはならない。一定の役割を帯びずに歴史からも遊離した私、にも拘らず(だからこそ?)、私は依然として私個人であって分人でも間人でもない。

第三の匿名性は寧ろ、その自他の区別を失った全体を俯瞰することでペルソナとノッペラボウを引き合わせる接触面を準備する。

さて、この人工的主体を考える手がかりになるのが、アメリカの政治哲学者、ジョン・ロールズが提出した「無知のヴェール」という思考実験の道具である。そう、第三の匿名性とは、ヴェール的匿名性と名づけるべきものだ。

ヴェール越しに見える世界

公平無私という言い回しがある。

ロールズが主著『正義論』のなかで提示した「原初状態」という疑似自然状態(=人間が自発的に社会を結成する前の状態)、そしてその想像的世界で装着することになる「無知のヴェール」は、フェアネスを担保する無私性を高度に抽象化することで、自由で平等な市民社会の理論構築に大きな寄与を果たした。

想像してみて欲しい。

誰も社会における自分の境遇、階級上の地位や社会的身分について知らないばかりでなく、もって生まれた資産や能力、知性、体力その他の分配・分布においてどれほど運不運をこうむっているかについても知っていない。さらに契約当事者たち partiesは各人の善の構想やおのおのに特有の心理的な性向も知らない、という前提も加えよう。正義の諸原理は無知のヴェール veil of ignoranceに覆われたままで選択される。(『正義論』、引用において若干訳文を変更した)

どれくらいの財産をもっているか、どんな来歴を経てどんな職業についてきたのか、男性なのか女性なのか、どういった宗教を信じているのか……。こういった経験的所与や属性、アレント的にいえば「何」を一切隠した上で、もし他者と共通の社会のなかで自分が生きていかねばならないのだとしたら、そこでのルールはどのように取り決められるべきだろうか。

ヴェールをつけた当事者が、(いまだ具体的に確定していない)我が身を大事にしようとすればするほど、原則としてどんな属性の人間も不利にはならない、つまりは偏りのない公正なルールを採用せねばならない。なぜならば、ある特定の属性をもつ一群を他の人々のための踏み台にするような社会制度を認めてしまったら最後、その踏み台に指名されるのは実は自分自身かもしれないからだ。

無私化のシミュレーションを介して公正なルールへの同意が調達できる。

ヴェール的匿名性のキモは次の点に求められる。つまり、コミュニケーションにおいて不可避的に思えた属性や歴史を一切無視するものの、依然、個人として独立した私が他者との対面可能性に迫られている、そんなコミュニケーション一歩手前へ隔離された別世界でのIFの想像力だ。

肝心なことは、ヴェールは自分の(肉体的であれ人格的であれ)アイデンティティに関する「情報の制限」に一役買うことはあっても、それはアイデンティティの否定を意味するのではない、ということだ。そうではなく、知らない(=無知)という仮定の下で取り扱わなければならないということ、ブラックボックスのなかに隠れているだけなのだ。

自分が「何」か分からない

アレントの語彙で考えてみる。

アレントにとって神秘的なヴェールに隠されていたのは、「何」ではなく「誰」の方だった。「誰」という人格的アイデンティティは、公共空間において他人に対してしか明かされず、しかも自分が直接触知することは叶わなかった。これに対して「何」は他人からは勿論のこと、男であるとか教師であるとか、簡単に自覚することができるものだ。だからこそ、その共通項を迂回することでコミュニケーションの糸口になり、ひいては「誰」召喚の前座として働いた。

しかし、ロールズが用いたヴェール的匿名性は、「誰」ではなく「何」の方に無知の制約を課そうとする。端から「誰」を出発点として構わない。ただし、そこにどんな「何」が付随してくるかは分からない。

純粋(ではあるがその内実が不明なまま)の極めて人工的な「誰」設定が「無知のヴェール」の最大の発明である。

アレントを逆転させたような思考の道筋を用いて、ここで企図されているのは、「何」から「誰」を約束するはずのペルソナ的匿名性が、いつの間にか劣化してノッペラボウ的匿名性に滑り落ちてしまうその前に、先んじて、関係性や歴史性にがんじがらめの既存の「何」から一旦離脱してみることにある。この距離化の努力こそ、ペルソナとノッペラボウの接触面を見直す上での要だ。

自分と自分の間

自分を決定づけている「何」は確かに存在する。けれども、その内実が明らかではない。アレかもしれないし、コレかもしれない。ヴェールの当事者は「人間社会に関する一般的な事実を知っている」。そして、ああなればこう、こうなればああ、はたまた思いもよらない事故に出くわすかもしれない、と推理するための思考能力を失ってもいない。

強調しておけば、ここでは現実の他者とのコミュニケーションは一切存在しない。「原初状態」は、他者と討論したり貴重なアドバイスをもらって公正なルールが決まる、という発想でつくられているのではない。ヴェール越しの世界は、社会正義を求める孤独な理論家が、思考実験としてあくまで自分の脳内で行っている模擬でしかない。

無論、ヴェールをつけた当事者は、様々な属性の他者のことを考慮しなければならない。けれどもその動機は、彼らが自分自身かもしれない、という「無知」の制約条件によってもたらされる自他の交換可能性に由来している。これを元手にすれば、誰もが同意してくれるような公正なルールに到達できるだろう、という算段なのだ。

公共空間を切り拓く他者との距離感を、アレントは「人間関係のウェブ」、そして「利害関心=間にあるもの interest」と表現していた。

他方、ロールズにおいて、ヴェール越しの世界で暮らさねばならない当事者は、「相互に利害関心をもたない mutually disinterested」。この制約が含意しているのは、他者の利害が私の利害に相関すること(を意識すること)を許せば、自分の取り分を確保するために足の引っ張り合いをする嫉妬深い人間や、また不幸な者に過度に同情的で自らをなげうってまで奉仕してしまうような聖人といった偏った主体を、正義のモデル化のための模範として採用せねばならず、それでは普遍的な理論構築にならないからやめるべきだ、ということだ。

とはいえ、決してインタレストそのものがなくなるわけではない。ロールズは彼らに「自己の利害関心 interests of a self」を認めている。いわば我儘でよい。が、その「我」なるものが他者との交換可能性に曝されているのだとしたら、それは結局、他人を出し抜くようなエゴイズムを維持できなくなる。

ヴェール越しの世界は普通の意味での公共空間ではない。そこに他者はいない。ウェブは断ち切らなければならない。けれども、その他者不在の隔離空間によってこそ、他者たちとの具体的な関係性に巻き込まれてない――こういってよければ和辻的間柄に組み込まれていない――抽象的な inter-estの空間が目の前に立ち現れる。即ち、自分と(あり得るかもしれない)自分の「間にある」を創出する思考の力技である。

他者なしに分人化する方法と言い換えてもいい。これをペルソナとノッペラボウとの対面のカラクリとして再利用してみたらどうか、というのがここでの提案である。

参考文献

  • ロールズ『正義論』、川本隆史+福間聡+神島裕子訳、紀伊国屋書店、二〇一〇年。とりわけ、一八頁、一七一頁、一八六頁、一九五頁、二四九頁。原著は一九七一年(改訂版は一九九九年)。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo

第16回 第三の匿名性、真空へ

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。伊藤整『火の鳥』の読解を受けての第16回は、ペルソナ的匿名性とノッペラボウ的匿名性を意識的に切り替えながら並走させる、「第三の匿名性」の可能性について。

 

伊藤の比較文学史が実際に正しいかどうか。そもそも、文学とは作家のエゴを表現するもの、という小説観に現在どれほどの説得力が宿るか。疑問はないわけではない。

けれども、そういったことをすべて無視して先に進めば、エミは、ぺルソナに基づく公的領域を必要としない日本社会に対して、いわば仮面淑女として果敢に立ち向かったヒロインとして造形されている。その闘争的な精神は、(西洋人と日本人という)混血性という設定によっても鼓吹されているようにみえる。

ただ、日本の仮面淑女は伊藤文学論からすれば、いささか意想外な結論に導かれる。つまり、仮面を装着した役者として役に徹しようとするエミは、そのために却って日常の舞台化を止められず、いつのまにか自分自身が面の裏側のように没面化していく、ということだ。アイデンティティの編集権を握るためのアクションが、翻って映画監督や新聞紙への権利譲渡に通じてしまう。それは、「空気」を支配しようと躍起になるのにいつの間にか「空気」に服従してしまっている過程と同期している。

仮面淑女は、ペルソナがノッペラボウとが、声が息遣いとが、セットで成り立たねばならない逆説を体現している。

仮面淑女の敗北

仮面淑女こと生島エミはペルソナ的匿名性がノッペラボウ的匿名性へと横滑りしてしまう陥穽にはまってしまった。この状態は小説末尾に至っても決して克服されない。

映画に参加したエミと入れ替わるかのように舞台、とりわけ左翼演劇に没頭して警察にマークされるようになった長沼敬一。薔薇座は自分たちの評判を守るため、彼との密会をエミに禁じる。だが、たまたま訪れた映画のロケ地で長沼の(警官の眼を掻い潜って秘密裏に開催される)政治的演説を観劇するだんになると、エミはその場の空気に流されて「私の内部から、もう一人の私が飛び出そうとするように、押さえがたい衝動」を感じる。

が、その一瞬の興奮が過ぎると、「あれは私を作り、私を動かしているのと同じ組織の力が反対に働いた一つの場面にすぎないのだ。それなのに、局外の、反対の秩序にはめこまれた私が、それに動かされて、自分を失った」と反省するに至る。演劇理論家や映画監督に支配されるのと同じく、「人形」を操る組織の力に屈服するしかない舞台役者の敗北にほかならない。場を支配するための演技が場から支配される格好の隙に転じることで、この小説は幕を閉じる。

「真空」に身を置く

ただ、エミが演技の仮面を外す例外的瞬間が終盤のある一景に描かれていたことは読み逃せない。ロケ地へ赴く直前、つまり薔薇座分裂の危機から脱し、男たちとの騒動にも一応の決着をついた束の間、エミは冬の東京の街を一人で歩きながら「身のまわりに誰もいないシーンとした孤独な人間」になれたことを感じる。

いつからか忘れていた、私だけの、私ひとりの生活が一滴ずつしたたり落ちるように味われた。今の私には、無理に私の心を動かそうと働きかける人もない。相談する人も、争う人もない。真空のような静かな生活のなかに、突然私は生きていた。〔中略〕ものの音が聞え、ものの姿が見える、私というこの静かな存在。私の心のまわりにある静かな空間。私はまた私自身になったのだ。私はひとりだ。私は、この私から、まわりのものを見て判断することができる。(『火の鳥』第八章第一節)

都市の雑踏のなかで孤独な自分を取り戻すという類似シチュエーションは、先行する『鳴海仙吉』のなかで既に描かれていた。東京から故郷である北海道の落谷村に疎開した文芸評論家、そして大学の教員でもある鳴海仙吉は、自分の過去を知り尽くし監視の眼を光らせた閉じた村社会は勿論のこと、衒学的な虚勢の張り合いに終始する大学界にも気疲れを覚える。が、大学からの帰路で通過する「人口二十万の札幌市」の人込みのなかを歩いていると、不思議と「自分自身に帰ったような」一時のオアシスにいやされる。

どうして雑踏のなかで、彼らは自身自身を取り戻すのだろうか。それは、顔見知りばかりいる流動性のない共同体とは違って、都市における不特定多数の面の通過、常なる交代が、他者から要求される役割や物語から離脱する機会を与え、なおかつ、全体=総計に融解することのない何者でもない私を、一種無味乾燥で内容空疎な仕方で回復させるからだ。

ものの音を聞くことは、声に耳を傾けることとは違う。雑踏は他者の声を複数の音の重層という仕方で非人間的に翻訳する。他者から逃れるシェルターの完成。ペルソナの声でもノッペラボウの息遣いでもない、つまりは空気に縛られない「真空」の孤独に身を置く。ここにペルソナとノッペラボウの接面を維持する有効なアイディアがあるのではないか。

ノッペラボウにスライドしてしまう

ペルソナは、公人と公人が対面するための舞台に一役買った(正しく、役をつくることで)。しかし、ここで考えてみなければならないのはペルソナとノッペラボウの接触面、あえて単純化していえば公人と私人が出会う公共空間である。

こう言い換えてもいい。〈インターフェイスがある匿名性〉と〈インターフェイスがない匿名性〉のインターフェイスを考えねばならない、と。間と塊の間を考えねばならない、と。

このように目的を修正してみたとき、第一に警戒するべきは、ペルソナとノッペラボウの切り替え感覚を欠いたスライドであるように思われる。丸山眞男が好んだ言い方をすれば「ズルズルべったり」な横滑りだ。

この困難はアレントと和辻との親和性を読んだときに既に予告されていたものだ。アレントの社会的役割分担を介した公共性概念は、和辻の間柄論とセットで読んでみたとき、その対他的性格から確固たる責任主体を立ち上げる困難を依然として内に秘めているように思われた。

実際、その役割=間柄が固定化することで、言語的コミュニケーションが圧殺、つまりはすべてが阿吽の呼吸で決定されるのではないか。その高文脈的なノッペリとした統治形態こそ「空気の支配」にほかならなかった。

声が息に反転する

同調圧力という無言のプレッシャーは、アクションに開かれていたはずの社会的役割を他者を顧みないルーティン的なお役所仕事に堕落させる。その膠着した役割をユニークネスを喪失した「歯車」と呼んでもいい。

宇都宮芳明や湯浅泰雄は、和辻倫理学を批判して、和辻のいう「間柄」は元来は人と人の間を指していたにも拘らず、論が展開していくにつれ間という差異を無くした統合された「全体性」に置き換えられてしまう、と指摘する。この困難は間柄が日常化して硬直すれば、コミュニケーションが自動運動化して対面の緊張を維持できないという事態に通じている。対面しているはずなのに全然こちらを見てくれない……アア、ウン、ソレ、アレ、ですべてが進む。ちょっと、あなたは誰と喋っているの? よくあることだ。

ここにおいて、複数の他者との対峙のなかで現れるはずのは消え失せ、公共空間が私的空間に反転してしまっている。ペルソナがつないだ誰でもないを行き来する連絡線が途切れ、端に誰でもないのノッペラボウ的深淵にみな滑り落ちてしまっている。

驚くなかれ。声の政治だったものが、いつの間にか、息遣いの政治に取って代わられているのだ。どの時点でこんなことになってしまったのか!

スライドを止めるスイッチ

問題なのは、公でも私でもなく、この無自覚なスライド的交代にある。スライド自体は極めて自然なことだ。それは声というものが、空気とともに、声にならない息遣いとともに発せられることの一つの必然だ。

けれども、その無自覚を放置すれば、ペルソナを過信し、割り当てられた役割に盲従することによって寧ろ逆説的に公共性を裏切ってしまう放置された私人たちが群れをなすだろう。ユニークネスのない集塊が帯びる傾向性から逆算して、暴力的でないスマートな統治形態を発見することに期待をかけるとしても、その場合であれ、ノッペラボウとの対峙は不可避だ。

無自覚な横滑りを自覚することで、よりマシなペルソナとノッペラボウの並走を期待することができる。「ズルズルべったり」を一律に禁止するのではなく、できる限りズルズルやベタベタの粘度を測定し、ペルソナがノッペラボウに絡めとられてしまう瞬間を敏感に感知せねばならない。

スライドではなくスイッチのような切り替え感覚を身につけること。責任と無責任の間のメタ責任とでもいおうか。これを手にする限り、ペルソナは、あたかも他のペルソナに対するかのようにノッペラボウと対面することができる。対面しようとすること、その姿勢自体がノッペラボウに対して既存の全体性に屈さない新しい特徴を提供し、また、ペルソナの方はに還るという自らの本分を思い出す。

二つの匿名性を暴走させずに、生産的で有意義なものとして活用していくためには、両匿名性の中間にあって、その間的位置の自覚を呼び覚まそうとする思考のカラクリが求められる。

これを私たちは「真空」の政治、第三の匿名性として考えてみたい。

参考文献

  • 伊藤整『鳴海仙吉』、『伊藤整全集』第五巻、新潮社、一九七二年。とりわけ、八四―八五頁。もとの単行本は、細川書店、一九五〇年。
  • 伊藤整『火の鳥』、『伊藤整全集』第五巻、新潮社、一九七二年。とりわけ、四三七頁、四三八頁、四五八頁。もとの単行本は、光文社、一九五三年。
  • 宇都宮芳明「人間の『間』と倫理」、佐藤俊夫編、『倫理学のすすめ』、筑摩書房、一九七〇年。とりわけ、一三五頁。
  • 丸山眞男『日本の思想』、岩波新書、一九六一年。とりわけ、一一頁。
  • 湯浅泰雄『和辻哲郎――近代日本哲学の運命』、ちくま学芸文庫、一九九五年。とりわけ、三五〇頁。もとの単行本は、ミネルヴァ書房、一九八一年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo