第7回 公人よ、あなたは「誰」?

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第7回は、ハンナ・アレントのペルソナについての問題提起から。

 

政治哲学者、ハンナ・アレントは、ペルソナを公私の区別として問題提起した。

『革命について』のなかで、アレントもまた、語源的釈義を用いて人格の仮面性を読み込む。とりわけ、その仮面によって獲得されるのは、私人とは区別された公共的な「法的人格」であり、ここにおいてヒトは権利や義務など法のなかで取り扱われる政治的存在として見出される。逆にいえば、この仮面をもたない私人は「自然人」に等しく、これは人「間」存在とはいえない単なるアトム的な個人(individual)に過ぎない。

人間は、生活や経済の必要=必然に拘束されるプライヴェートの世界と、複数で多様な他者と自由な言論を交わし合うパブリックの世界という、二つの異なる領域を往来しながら生きている。仮面は、パブリック(公的領域=法的政治的世界)に入るために必須な許可証だ。

アレントにとって公的領域とは、人間の複数性に開かれており、彼らが相互を取り結ぶ「間」に関心を払いつつ、その人が他に替え難い固有の仕方で現れるような空間を指している。ここでは、人間は個人の生身から離れて、医者として弁護士として著者として教師として……、つまりは~としてという種々の対他的な役割の分節を生きる。

仮面とは、この役割のことであり、和辻のペルソナ論を読み直した坂部恵の難解な言い方を借りれば、「自己と他者の分離的統一という構造」である。

さらにいえば公的領域とは、レイバー(労働)ともワーク(製作)とも区別される、アクションの主要な舞台でもある。

アクションは勿論、活動と訳していいが、演技と訳してもいい。なぜならば、アレントにとって公的領域とは、演劇の比喩に託されるべきものであり――従って、ここでいう「役」も「舞台」も演劇用語として理解すべきだ――、物語を行為的に演じることで初めて、その人は劇の主人公(ヒーロー)となることができるからだ。

主著『人間の条件』の言葉に従えば、「人間生活の政治的分野を芸術に移すことのできるのは、ただ演劇だけ」だ。アレントにとって、ペルソナとは、公共空間に出ていくのに不可欠な仮面=人格である。

「何 what」と「誰 who」

ただし、アレントが仮面に公的領域へのドレスコードを認めたからといって、仮面の下には本当の私がある、その人の固有のアイデンティティが対応している、と速断してはならない。ここでのアレントの議論は込み入っている。

ここを読み解くには彼女が峻別している「何 what」と「誰 who」の区別を理解しておかねばならない。アレントは『人間の条件』のなかで次のように述べている。

人びとは活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティ personal identitiesを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。しかしその人の肉体的アイデンティティ physical identitiesの方は、別にその活動がなくても、肉体のユニークな形と声色の中に現われる。その人が「何 what」であるか――その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥――の暴露とは対照的に、その人が「誰 who」であるかというこの暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべて暗示されている。(『人間の条件』、ただし訳文を若干変更した)

「何」は肉体的アイデンティティを構成するのに対して、「誰」は肉体に紐づけられない人格的アイデンティティの答えに他ならない。たとえば、ユダヤ人である(人種)、五〇代である(年齢)、女性である(性別)という属性――ちなみにこれらは『人間の条件』を書いたときのアレントの「肉体的アイデンティティ」である――に関するテーゼは、すべて「何」の問いに対応するものだ。

ここから、先に紹介したアレント的公私の区別でいえば、「何」は私的なものに、「誰」は公的なものに対応している、と一応は理解することができる。事実、「誰」は公的領域においてはじめて露呈する。ある人間の誰? に対する回答は、特別な~であるに求めることはできないし、複数の~であるの集積から生まれるわけでもない。それ以上に本質的なものが人間にはある。

では、「何」と区別される「誰」とはどのようなものなのか。これを説明するのは極めて難しい。というのも、「誰」は既に引用したように、公的な行為=演技によって他者に対してパフォーマティヴに示されるほかなく、言語によって表象(イメージ化)することが定義上できないためだ。言葉による返答は、すべて「何」に回収され、人間がもっている固有の「誰」性の謎を満足させることはない。「何」である限り替えが効くが、「誰」とはほかの誰でもない誰かなのだ。

既に明らかなように、「誰」は一個体が生得的にもっている個人の核のごときものでは決してない。「誰」は他者に対してだけ現れる。アレントが徹底しているのは、それ故に、「他人にははっきりとまちがいなく現れる「誰」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっている」と指摘していることだ。「誰」とはその人の唯一性を証明するものだが、驚くべきことに、その内実を本人が知ることはないのだ。

ペルソナは「誰」?「何」?

ここで疑問が生じる。

アレントのいう「誰」とは、彼女が述べていたペルソナのことなのだろうか。この仮説には相応の説得力がある。というのも、対他者用のペルソナを装着することよって人は公的領域で活動=演技することを許され、私人=自然人を克服することができたからだ。「誰」もまた公的なものであり、そしてなによりこれは「人格的アイデンティティ」に等しいものだった。繰り返すが、「人格的 personal」とは語源を遡れば、ペルソナ的の意味に他ならない。

しかし、「誰」と「ペルソナ」を同義として扱うと、アレントのテクストの解釈に明らかな支障が生じる。

たとえば、『革命について』では、ペルソナの代表例として自然人から区別された「法的人格」が挙げられていた。果たして、これは唯一的「誰」の回答として相応しいものだろうか。つまり、法廷においては誰もが法的人格なのではないか。また、そのことを本人が自覚するのは容易なのではないか。

或いはまた、『責任と判断』所収の「ソニング賞受賞スピーチ」では、やはりペルソナの語源釈義に言及したあとで、次のように述べている。

私たちは常に、舞台 a stage、割り当てられた自分の職業である役割 the rolesに従って承認された世界に現れます。医者として弁護士として、著者として出版者として、教師として学生として、とかですね。この役割を通じて、これで声を響かせることsoundingで、まったく別のものが、完全に特異的で定義不能なのに依然として同一性を確認できるidentifiableなにものかがそれ自体で暴露されるのです。(「ソニング賞スピーチ」、ただし訳文を若干変更した)

役割において声を響かせる道具がペルソナであるのなら、ここでいう「医者として弁護士として」云々といった職業群はすべてペルソナと読んでいい。そして、ペルソナは露呈される「まったく別のもの」ではない。

お気づきだろうか。一見、「誰」という「人格的アイデンティティ」に対応しているようにみえたペルソナは、ここではもはや交換可能な「何」に堕落しているのだ。医者も著者も教師も、それら職業自体はユニークでもなんでもなく、世に溢れている。「誰」とはそのような属性に収まらない行為的アイデンティティだったはずだ。

「何」を介して「誰」を愛す

ペルソナの位置づけを介してみると、アレントが想定しているだろう「誰」の露呈という事態の、いささか撞着的で困難な条件が垣間見える。

先ず第一に、ペルソナは「誰」の回答に相応しくない。法的人格にしろ職業的役割にしろ、寧ろ「何」の方に親しい概念として理解すべきだ。けれども、「誰」を露呈させるためにはペルソナの装着は必至である。なぜならば、「誰」は他者と対面する公的領域でしか顕示されないが、公的領域はペルソナを被り合って初めて確立される空間だからだ。『人間不平等起源論』のジャン=ジャック・ルソーが理想化していたような孤独な自然人(=私人)は「誰」でもない。

ここから推察されることは、「誰」とは、ペルソナや「何」を裏切る余剰というかたちでしか露呈しないが、ペルソナや「何」にそもそも相対さなければその裏切りの契機すら発生しない、という点で「誰」は誰であってもいい交換可能な役割に逆説的に支えられているということだ。「面」は破られるために存在する。

入り組んでいるものの、これは卑近な例を考えてみても十分共感できる議論だ。

ある特定の人間を愛するとき、私たちはその人の替え難さを愛する、と自覚する。仮に、その彼(女)よりもよりよい人材が見つかったとして――より美人だとか、より年収が高いとか、より頭がいいとか、より優しいとか――、その理由によって愛することをやめようとは思わない。何故ならば、愛とは、様々な属性によって還元できないような「誰」に照準するからだ。

舞城王太郎の小説から引用してみる。「人が人を好きになるときには、相手のこことかそことかこういうところとかああいうところとかそんな感じとかそういうふうなとことかが好きになるんじゃなくて、相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持っている核みたいなところを無条件で好きになるんだろうと思う」。正しい。

しかし、だからといって、ペルソナ的「何」的役割が一切存在しないとしたら、愛する「誰」への照準の維持が至難を極めるのも明らかだ。

女性の格好をしている彼女に男の私は声をかけようとする。見たところ同い年ぐらいだからなんとなく親近感がある。聞いてみるとびっくり、出身が同じ地方だったなんて! 

これら「何」の束は、一切「誰」を規定するものではない。にも拘らず、すべての「何」が剥奪されてしまった「誰」は、具体的な身体やその身で経てきた経験を一切もたない抽象的産物に堕してしまう。それは生気を失った思念的対象以外の何者でもない。

街を歩いていた女の子に声をかける。仲良くなって、彼女の性格や趣味や宗教や出身地を知る。人生の歩みを知る。彼女とよく似た女性がいたからといって、もう別の誰かと一緒にすることはできない。彼女の「誰」を痛感する。けれども、そもそもその「誰」に達するには、様々な「何」にアクセスして、そのペルソナと対面する必要があったことを忘れてはならない。

整合的に解釈しようとすればペルソナは「誰」でもなければ、単なる一つの「何」と考えるべきでもない。おそらく、ペルソナとは「何」から「誰」を垣間見せるための、その二つを連絡させるインターフェイスである。

比喩的にいえば、「何」的ペルソナに回収されない唯一的「誰」の顔とは、決して脱ぐことができず、それ故に他人と交換することも叶わない、素顔にぴたりと張り付いた摩訶不思議な肉づきの面として存在している。肉に張り付いているため外して自分で確認することもできない。それは生身の顔ではないが――それは私人の顔であろう――、装着者の身体(顔面)と切っては切り離せない生きた仮面として他者の前に現れるのだ。

 


参考文献

  • アレント、ハンナ『人間の条件』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年。とりわけ、二九一~二九二頁、三〇四頁。原著は、一九五八年。
  • アレント、ハンナ『革命について』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九五年。とりわけ、一五八~一五九頁。原著は、一九六三年。
  • アレント、ハンナ「ソニング賞受賞スピーチ」、ジェローム・コーン編『責任と判断』収、中山元訳、ちくま学芸文庫、二〇一六年。とりわけ、二四頁。原著は、二〇〇三年。
  • 坂部恵『仮面の解釈学』、東京大学出版会、一九七六年。とりわけ、八七頁。
  • 舞城王太郎『阿修羅ガール』、新潮文庫、二〇〇五年。とりわけ、四三頁。もとの単行本は新潮社、二〇〇三年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo

第6回 タイガーマスクとゼロ

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第6回は、「タイガーマスク」騒動、『コードギアス』についての考察から、和辻哲郎のペルソナ論へと展開していきます。

 

全国の「タイガーマスク」たちがこぞって善行しだすという奇妙な社会現象があった。

ことの発端は、二〇一〇年一二月二五日、つまりはクリスマス当日。群馬県の児童相談所に「伊達直人」と名乗る三〇代のサラリーマンからランドセル一〇個が寄付された。

この「伊達直人」とは、アニメ化もされた梶原一騎原作の漫画『タイガーマスク』(一九六八~一九七一)の主人公の名である。孤児院出身の伊達は、虎の覆面プロレスラーとなって正体を隠し続けたまま月々の給与を孤児院に寄付する。

そんな漫画の主人公をまねた「伊達」が、大々的に報道されることをきっかけにして、次々と恵まれない子供たちに寄付をする模倣犯が後に続いた。善行が伝染したのだ。

二〇一六年一二月、発端となった第一の「伊達」であった会社員の男性は、その正体を公表したものの、当時、この現象が興味深かったのは、個々人の行為がその固有名に帰属することなく、すべて「伊達直人」や「タイガーマスク」という一般的に象徴化された虚構のキャラクター名に回収されていくところにあった。

日常に浸透したフィクションの効力を、まざまざと見せつけられた事例だ。

誰でもなれるタイガーマスク

 なにが大事なのか。第一に、全国のマスク(ウー)マンは、期待できる対価を受け取らず、より純化された贈与行為を実行する。

贈与には損があるだけでそもそも対価などないじゃないか、と思うかもしれない。そうではない。贈与の気前のよさは、それを観た他者による行為者の社会的評価を生む。寄付するなんて立派な方ね、や、このご恩は一生忘れないといった評判は、社会関係を有利に進めるために蓄財できる不可視の報酬である。

だからこそ、あんなのは偽善だ! という、報酬を先取する批判が、しばしばクリシェのように発されることになる。見える価値を見えない価値に置き換えてるだけ、単に交換しているだけじゃないか、というわけだ。

このような疑り深い批判を予め封じ込めるため、行為の帰属先を「タイガーマスク」に移すというアイディアは画期的なものだといえる。個々人の善行を、個人の固有名ではなく、虚構のキャラクターに仮託することで、偽名が隠れ蓑となって、偽善者! いいカッコしい!、といった非難を回避することができるからだ。

第二に、それが故に、「タイガーマスク」という一般的に象徴化された名は、一個人を指すことなく行為のレヴェルで判断される集団性を帯びる。事前に期待されている行為さえ実行すれば、誰でも「タイガーマスク」になれる。誰のものでもない名前は、誰でも受け入れ可能なオープンネスを帯び、伝染的に行為の参加者を増殖させる。

こうして架空のキャラクターは、無名で無数の演者の連鎖によって、現実世界での実在性を獲得するのだ。

ただし、仮面(マスク)の機能はウーティスとはやや異なる。両者は、本来もっている自分の名を隠すという点で同じだが、仮面は、キャラクターとして固有の物語的文脈を引き継ぐことで、物語に組み込まれると同時に物語を新たに紡ぎ出す可能的力能に漲っている。斎藤環が騒動に対して「匿名の善意」ではなく「キャラの善意」の発露を読む所以だ。

伝染的に名乗りを上げた「伊達直人」たちは、『タイガーマスク』という物語世界を仮装すると同時に、二次創作的な仕方で本編の続編をキャラクター単位で分岐的に編み出す力も得る。彼らにとって、この世界は物語の外伝である。

仮面(覆面)のヒーローの形象は、仮面ライダーシリーズ、〇〇レンジャーや××ファイブといった戦隊モノ、数々のアメコミなど、子供向けの物語文化にありふれている一種の定番のようなものだ。普段は一般市民として平凡に暮らしつつも、危機のさいには仮面を被って素顔を隠して悪に対して正義をなす。

ここでは市民(日常)/英雄(例外状態)の間に決定的な分割の線が走っており、そのスウィッチングの自由をヒーローは手にしている。即ち、仮面者は、物語に参加する(=組み込まれる)/物語から離脱する(=取り外される)の選択肢によって、自分の名を離れるウーティス的世界に接近するのだ。

ゼロの仮面

 「タイガーマスク」騒動から遡ること数年、ちょうど「希望は戦争」論争が世を騒がせていたころ、テレビアニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』(二〇〇六~二〇〇八年)は、仮面がもたらすこの二肢性を逆手にとって、現代的なダークヒーローを造形していた。

舞台は、神聖ブリタニア帝国の侵攻によって植民地と化した日本こと、属領名「エリア11」。外交政策のもとに、妹とともに人質として日本に預けられたブリタ二ア皇子のルルーシュは、弱肉強食の論理を貫く非情な皇帝を筆頭としたブリタニア皇族への復讐を胸に誓いつつ、身を隠して学生生活を送る。

そんななか、謎の少女・C.C.と出会ったことをきっかけに超能力を手にしたルルーシュは、黒い仮面に黒装束をまとった指導者「ゼロ」として、祖国独立を願う日本人テロリストたちと「黒の騎士団」を結成する。「正義の味方」として、ときに暴力的な手段を厭わず帝国ブリタニアに反旗を翻すのだ。

当初、日本人と連帯するためブリタニア人であることを隠す必要で用いられた「ゼロ」の仮面は、作中何度もドラマを駆動させる絶妙なギミックとして機能することになる。というのも、仮面と装束を他人に貸し与えること――なりすまし――で、主人公は、「ゼロ」の政治運動と同時に、他の活動、たとえば学園での日常生活を両立ないし共存させることに成功するからだ。このシカケは、自分は「ゼロ」ではない、というアリバイ造りにも寄与することになる。

「ゼロ」の仮面は、その名の通り、無の記号、即ちゼロ記号となって、人と人の間を行き交うことで、間‐人間的な義賊の物語を更新していく。映画用語でいえば、「ゼロ」の仮面は物語を駆動するマクガフィンである。

実際、このギミックは、その最終回の筋立てさえも予告することになった。つまり、権謀術数的な手段でブリタニア皇族を打ち倒し、最終的に帝国の独裁者にまで登りつめたルルーシュは、「ゼロ」の仮面を託した親友に、自分自身を殺させるさまを世界中に中継するよう手配する。人民の敵意を一挙に担う支配者を打倒することによって、世界の民主主義的な統治が回復する。ルルーシュは退場し、「ゼロ」の神話だけが生き残る。

仮面の物語の継承のために、生身のヒトが切り捨てられる。ここで優先されているのは、主人公個人の思想信条ではなく、一般的に流通した「正義の味方」のシンボルの強度だ。個人が造り上げた物語的仮面は、その間‐人間性故に、個人を超えた独立性を帯びるのだ。

独立する面

 哲学者の和辻哲郎には「面とペルソナ」という有名な随筆がある。

人間の像を再現するには、なにが必要か? 腕か、足か、胴体か。いや、顔面だけあれば事足りる。彫刻や肖像画などの芸術作品は、人間の本質を顔面という身体部位に局限した表現にほかならない。別の様々な身体は切り捨てて構わない。そして、この考え方を突き詰めたのが「面」である。「面」には首、頭、そして耳すらついていない。

加えて、彫刻や肖像画が静止した作物であるのに対して、「面」はそれとは異なるダイナミズムがある。というのも、「面」は役者によって装着され、「動く地位」を獲得するからだ。

面の働きにおいて特に我々の注意を引くのは、面がそれを被って動く役者の肢体や動作を己れの内に吸収してしまうという点である。実際には役者が面をつけて動いているのではあるが、しかしその効果から言えば面が肢体を獲得したのである。〔中略〕どんな拙い役者でも、あるいは素人でも、女の面をつければ女になると言ってよい。それほど面の力は強いのである。(「面とペルソナ」)

誰かの顔だったものが、次第に「面」として独立していくに従って、新たな身体を欲するようになる。身体が交代しても、もはや「面」の同一性は揺らがない。むしろ、身体のあらゆる振る舞いが、即ち演技となって、「面」のキャラクター性に回収されていく。たとえば、「女の面をつければ女になる」。

この「面」の議論は、「タイガーマスク」や「ゼロ」に関しても転用できる。どちらの仮面にしろ、人々の間での歴史的な受容を通じて一個の抽象的「面」――これを別の言葉でアイコン化と呼んでもいいかもしれない――として独立し、その結果、別の身体性の獲得可能性に開かれる。こうして仮面を用いる匿名の人間は、伝説的物語の再生産にただただ貢献する。「面」は抹殺されずに転生する。

もはや仮面を用いているのか、仮面に用いられているのか、判然としない。橋本努は「ゼロ」について、「仮面を被って、共同体の利害を超越した境界的な存在(マージナル・マン)でなければ、正義の味方になれない」と評するが、その仮面は、単なる正義の使者の負荷なき記号などではなく、物語の履歴を保存して人々の記憶に訴えかけるものでもあったことは看過できない。共同体を乗り越える仮面もまた、既存の物語を共有することで新しい共同体を創造してしまう。

『タイガーマスク』には、偽タイガーマスクと戦うエピソードがある。偽タイガーは、悪辣な反則を繰り返すことで本家の評判を落とそうと画策するが、伊達直人にはこれを止める手段が思いつかない。伊達とタイガーマスクの結びつきは厳重に秘匿されている。最終回に至っても、交通事故に遭おうとする子供の身代わりになって倒れた伊達はマスクを川に投げ捨ててしまったため、その正体が公になることは決してなかった。

だからこそ、本物のタイガーマスクなるものを誰も証明することができない。マスクがあるところに、直ちに本物が成立するからだ。ここに伊達の懊悩があった(文庫版第七巻、一九頁)。誰にでも開かれた仮面は、特定の誰かに囲い込まれることなく、当初の所有者によってさえも管理不能、操作不能なものへと成長してしまうのだ。

『タイガーマスク』文庫版第七巻、一九頁

日常のペルソナ

 ただし、和辻が指摘した「面」の特性は、突き詰めて考えてみれば、狭義の物理的な仮面の問題にだけ収束させることはできない、人間の社会的生活一般にも通用するものだ。

事実、和辻は、交換可能な身体を渡り歩ける人間の「面」の核心的意義に、「人格の座」を認めている。「人格」とはパーソナリティのことであり、原語を遡ればペルソナ(persona)のことを指す。当然、「人格」は社会の成員誰もがもつ、その個人の性格にほかならない。

我々はおのずからpersonaを連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物を指す言葉になる。dramatis personaeがそれである。しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。(「面とペルソナ」)

「面」は素顔を覆い、舞台用の演技の道具として間‐人間的に独立したかにみえた。しかし、ここで和辻が述べているのは、「面」で覆われているはずのその素顔なるものが、既に「面」なのではないか、という前提を突き崩すような疑問である。

特別な道具を頼らずとも、人は「ペルソナ」(=人格)という仮面をつけて日常的なコミュニケーションに臨んでいる。逆にいえば、ある個人の「人格」とはその個人を取り巻く人間関係の網目のなかで結実するものなのではないか。和辻の考え方を乱暴に要約してみれば、人間の本質は人間と人間の「間」にこそ宿る。正に、人「間」こそ和辻最大の関心事である。

同じことは、『コードギアス』でも指摘されていた。

宿敵であるブリタニア皇帝についに対峙したルルーシュは、仮面に関する一種形而上学的な議論を始める。曰く、「ゼロ」でなくとも仮面で偽りの自分を演じ分けることは当たり前のこと、親に対して友人に対して家族に対してペルソナを入れ替えることは誰でもやっていること、云々。

これに対して、皇帝は、超能力を次の次元にまで極めることで、個々人の意識を人類の集合無意識に統合させ、人格の区別を超えて結ばれる世界の実現、という大仰な計画を打ち明ける――アニメをよく見る人ならば、『新世紀エヴァンゲリオン』で語られた「人類補完計画」のようなもの思い浮かべてくれれば分かりやすいだろう――。ここにおいて、ペルソナ的仮面(=嘘をつくこと)は不要のものとなり、克服の対象として見出される。

主人公は、このような仮面撲滅を謳う皇帝を倒すことで、仮面の肯定を高らかに宣言する。最終回の「ゼロ」という仮面の継承の決着は、ここでの選択によって間接的に予告されていたといっていい。互いに仮面=ペルソナの政治を生き抜け。これが『コードギアス』の主たるメッセージであった。

 


参考文献

  • 梶原一騎+辻なおき『タイガーマスク』、全七巻、講談社漫画文庫、二〇〇一年。
  • 斎藤環『キャラクター精神分析──マンガ・文学・日本人』、ちくま文庫、二〇一四年。とりわけ、一八頁。元の単行本は筑摩書房、二〇一一年。
  • 橋本努×宇野常寛×荻上チキ「『コードギアス』はいかにゼロ年代を葬送したか」、『クリティカル・ゼロ――コードギアス 反逆のルルーシュ』収、中川大地編、樹想社、二〇〇九年。とりわけ、一七〇頁。
  • 和辻哲郎「面とペルソナ」、『和辻哲郎随筆集』収、坂部恵編、岩波文庫、一九九五年。とりわけ、二六~二七頁。初出は、『思想』一九三五年六月号。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo