第4回 神戸:1975(3)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

「なんや今日はプリンアラモード、食べたい気分やわ」

「おばあちゃん、そんなんここにあらへんわ。モカペアにしといたら」

「私はアイスコーヒー」

「ほんなら私もそれ。あとケーキも。お母さんはいらん?」

「遠慮しとく。それにしても今日はぎょうさんの人やわ」

「人もすごいけど、えらい暑い。のど渇いたわ」

 

隣席に座った祖母、娘、孫の三人連れは、世代ごとに着る服は違っても、流行そのままでもなく、かといって遅れるでもなく、「品のある女たちの装い」というところでぴったり共通していた。神戸の山手の住民にみられる、決してとがらない、そつなく鈍く華美な出で立ちだ。

休日の昼下がり、三宮センター街にあるジュンク堂で本を買った後、にしむら珈琲に立ち寄ってページをめくる決まりは実家を離れて、たまの帰省であっても続いていた。にしむら珈琲と言えば、ヨーロッパ調のクラシカルな内装と落ち着いた雰囲気、丁寧なサービスで定評のある老舗の喫茶店だ。神戸の人間なら知らないものはいない。

隣に居合わせた三人組の格好に既視感を覚えたせいか、聞くともなしに会話が耳に入る。話題は大丸での買い物を皮切りに、知り合いの結婚式についての「あそこのお嬢さん、ええとこにいきはったわ」から、この前行ったフレンチの味「喫茶店の娘さんがやっているとこのランチ、美味しかったな。また行こ」に引き続いて、今度の旅の予定「お父さんも一緒に行ったらええのに」へと次々と移り変わった。

 

大学生と思しき孫のかたわらに置かれたハイブランドのバッグは、デザインからして母親に譲られたものだろう。三人ともきっとファストファッションを身につけることはないはずだ。といって忌避することもない。ただそれとは縁のない暮らしなのだ、と勝手に想像した。

彼女たちのおしゃべりは終始ドラジェのように糖衣で覆われていて、どことなく谷崎潤一郎『細雪』のひとくだりを思い起こさせる。浮世のことはともかくといった調子の会話は、かつての自分にとっては馴染み深いものだったが、今となってはあまりに現実離れしているように感じた。三人の話を聞いているうちに、ぼんやりと思い浮かべたのは「阪神間モダニズム」という語だった。

 

関西圏以外の人には馴染みのない「阪神間モダニズム」であるが、手短に言えば、大阪から神戸へと郊外に都市が広がる中で生まれた、新たな生活様式と消費活動の勃興ということになるだろう。モデルとされたのはイギリスに生まれた「田園都市」であった。彼の国においては工業化による大気汚染、労働者の都市流入による住環境の悪化といった問題から都市設計が構想されたように、こちらも発端は大阪の住環境の悪化にあった。

大阪は近世から1930年代にかけて経済の中心地であった。明治以降は近代産業の花形である紡績や鉄鋼業が盛んになったこともあり、人口は首都の東京を追い抜いた。しかしながら、急激な産業化によりイギリス同様の問題が起きた。そこに目をつけたのが阪神や阪急といった電鉄会社で、どちらも沿線の宅地開発に勤しんだ。阪急電鉄はパンフレットを通じ、こう喧伝した。

 

「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」

 

やがて住友家を筆頭に東洋紡や大林組の社長をはじめ企業の重鎮、重役たちが続々と阪神間に転出し、富豪たちの邸宅が郊外に建ち並び始めた。とりわけ阪神電鉄の通る住吉村は1920年代には「富豪村」として知られることになる。郊外転出は勢いづき、日本生命、伊藤忠、丸紅など商社の社長宅、財閥、製薬会社、不動産業を営む大阪船場の富商たちが、芦屋や御影など「阪神間」にこぞって私邸を構えた。 

宅地開発のかたわら、小林一三率いる阪急電鉄は斬新な策をとった。ターミナル駅にデパートを設け、閑散とした農村地帯に敷いた路線に乗客を誘致するため、娯楽施設をつくったのだ。それが宝塚に開場した温泉であり、一環の娯楽として立ち上げたのが宝塚歌劇団だった。こうした開発の手法はのちに東急の創始者、五島慶太の模倣するところとなる。

 

阪急電鉄はいまでこそ芦屋、岡本、御影といった高級住宅街を抜ける路線として有名だが、神戸線が開通した1920年には、人家もまばらな山麓を直行するだけの路線でしかなかった。神戸線の宅地開発でまず着手されたのは岡本駅付近であった。

岡本や御影は神戸の典型と言える地形をしており、北に山を背負い、南の間近に海を臨むことができる、景観の良い地であった。外国人も多く住む付近について、1929年に書かれた「阪神風景漫歩」はその風景をこう描写している。

 

「御影あたりに住んでゐる西洋人の細君たちは、神戸の市場で求めた食糧品をバスケツトにつめ込んで、この電車で帰つて行った。何とかいふ露西亜の美しいダンサーの顔もしばしば見受けた。御影=岡本=芦屋川では阪神間における、最もモダーンな色彩を乗せる。それは大概、ブルヂヨアの家族たちで、目のさめるやうな振袖か、でなければ、スマートな洋装である。(略)若い細君たちは、長いクラブを抱へて、よく、その日のゴルフゲームの話をした」

 

この年、芦屋の六麓荘の造成が始まる。いまでも高級住宅地として知られる六麓荘では、電柱が景観を損なうことから地下埋設とし、道路はすべて舗装され、テニスコートや運動場も作られた。

阪神間に分譲地が増えるにつれ、購買層もまた広がり、企業の社長や重役、大阪の船場の富商だけでなく、第一次大戦の戦争特需によって潤った商社や銀行、また官庁に勤める中産階級が居を構えるようになる。都市の勤め人が中流階級の中心となる時代に入っていた。

田畑の宅地化が進み、街が広がるにつれ、消費行動も盛んになった。神戸の元居留地や元町、南京町では「外国図書、ファッション、雑貨からマンゴスチン、マンゴ、シュークリーム、バウムクーヘン等がなんでも買えた。(略)いくらでもうまい西洋料理や中華料理が食べられた」(『関西モダニズム再考』)。

1927年、帝国キネマ撮影所の芦屋撮影所が発足した。1933年、日本最初のファッション誌『ファッション』が芦屋で創刊。そして1937年、本山に洋裁研究所が創立するなど文学、音楽、衣装の領域において新しい文化が花開いた。そうした新しい風俗や地域住民の振る舞いをよく反映しているのが先述した『細雪』であろう。

 

先ほどから私は幾度か谷崎の名に触れている。というのは、谷崎が住んだ魚崎や岡本、住吉は私たち一家が住んだ場所であり、また父の創業した会社のあった地でもあり、そういう意味では、私たちは阪神間モダニズムが価値を置いた土地の後追いをしていたのだなと思うからだ。肝心の阪神間モダニズムは、やがて日中戦争が泥沼にはまり込み、統制経済が強化され、国粋主義に傾く世相の中で終わりを迎えることとなった。

しかし、かつてのセレブリティの暮らしぶりは多くの記憶に残ったと見え、戦後になっても山手で上品な暮らしを送ることをアガリとする考えは、我が家がそうであったように、神戸の住民に間に根付いた。

 

食べるものもなく、水を飲んで腹を満たす。そんな底辺の暮らしから父の人生は始まった。

印刷会社勤務を振り出しに、ケーキの包装紙やリボンの卸売会社を創業。ケーキやパンといった洋風の食事の広がりと共に、売り上げは拡大していった。裸一貫から始めた事業で社会階層の上昇を成し遂げたられたのは、誰もがなりふり構わず、己の存在を確保することに血道をあげていたからだとも言える。

やがて社会が安定していくにつれ、システムに則ったやり方で手にした財の現状維持、拡張が図られることになる。そのひとつが教育への投資だ。私は阪神間モダニズムの担い手の子弟を育てた甲南小学校への小学校受験を課せられることになった。あいにく不合格となったものの、世は進学塾ブームの真っ盛りであり、メディアでは「受験戦争」という語を多見する時代だ。次は中学受験が当然とされ、私には選択の余地はなかった。日本社会で異民族がサバイブするならば、「他を圧倒する実力をつけなければいけない」という父の考えは折に触れて示されており、事業が成功し続ける限り、それは揺らぐことはなかった。

 

1984年、我が家は住みなれた魚崎を離れた。これまで仰ぎ見ていた、岡本の梅林という海抜150メートルほどの山の頂き近くに越した。新しい家からは大阪の泉南、麓の市街が一望できた。私たちは正しく阪神間モダニズムの足跡を追っていた。