第15回 東京:1994(1)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

東京へ行くつもりなんてなかった。取り立てて東京への憧れもなければ、地元から離れて暮らすなど考えたこともなかった。世界の果ては崖になっているという古代人ではないにせよ、考え及ぶ限りの生活世界の範囲は近畿圏で収まっており、その向こうは霞んだ景色でしかなかった。バブル経済の崩壊と就職氷河期がなければ、ずっと神戸でアホボンとして暮らしていただろう。

1991年3月、バブル経済が崩壊した。
 その日、私はインドのニューデリーにいた。
 青春ノイローゼを地で行く自分探しの旅の途上で髄膜炎に侵されて倒れた。帰国の予定日を一週間あまり過ぎて、ようやく立てるようになったものの、照りつける太陽の下、足を前に出すのも一苦労のすっかり痩せ衰えた身を押して病院から国際電話局までノロノロと歩いたのは、まだ携帯電話はなく、公衆電話から国際電話をかけることもできなかったからだ。
 おまけに出国前に保険にも入っておらず、持ち合わせの金もない。父に無心の電話をするつもりだった。コールして間もなくの父の第一声は「生きていたのか!」であった。聞けば、私は行方不明者として在インド韓国大使館に捜査依頼が出されていたという。
 手にした受話器すら重くて長くは持っていられない。簡便に用件を伝えようと「入院費と帰りのチケット代がないから送金してくれないか」と喘いで言うと、父は謝絶するかの口ぶりでこう返した。「それどころじゃない」。

「株が大暴落したんや。家が抵当に入るかもしれん」

這う這うの体で電話したその日、まさに日本ではバブル経済が土崩しつつあったのだ。株と土地の投機にのめり込むところのあった父は大損失を被った。私にはそういう絶妙な瞬間に立ち会うことがままある。脳裏には差し押さえの札が貼られた我が家が浮かんだ。ともかく帰りの飛行機代だけは送ってもらいたいと言い置き電話を切った。入院費については、インド人の医師に頼み込み、日本に着いてから払うと約束して帰国した。

その後は月に10から20万ほどあった小遣いはなくなりアルバイトを始めた。真っ逆さまに転落していく暮らし向きに、私の心境はどうであったか。幼い時分から「平家物語」の「ひとえに風の前の塵に同じ」を折に触れて心に唱えていた。長生きは願っても叶わないと運命づけられた母がそばにいたことと、慣れ親しんだ古今東西の史書が証明しているのは栄耀栄華の儚さであり、地上の出来事の短命さはどちらも予告されていたことだという思いが、ある種の耐性を私の中に育んでいた。
 父が一代で築いた資産が瓦解していく様に立ち合うことは、私の享受していた豊かな暮らしが足元から掘り崩されていくことも同時に意味したが、それを恐怖に感じる一方で、いくら富を誇ったとしても「ただ春の夜の夢の如し」なのだという予感はいささかも誤っていなかったことに、妙に安堵感を覚えもした。

そうした悦に入っていても現実のままならさはどうにもならない。4年生になったので、アルバイトも経験したことだし、ついでに人並みのことをやろうと就職活動も行うことにした。
 始めてみると不可解なことは度々起きた。
 説明会は「追って知らせる」と言いながら、2日後に再び問い合わせると「もう終わった」と言う。先輩らの内定を早々にもらうのが当たり前の時代は過ぎ去り、就職氷河期第一世代が出くわした不条理な出来事は多々あるだろうが、それに加えて「これが就職差別というものか」と思わざるを得ないことも数々体験した。父の世代のように露骨ではない。一見開かれて見えるが、近づくと閉じる奇妙な門。これを訪って叩いたところで返答はない。

憤ったところで食い扶持が稼げるわけでもない。
 日系企業以外であれば採用の可能性もあるのではないかと、在日コリアン系の企業を受けてみることにした。エントリーしたのは焼肉のタレの「ジャン」で有名なモランボンである。食品メーカーのモランボンはさくらグループの一部門であり、グループの下にはゲームやパチンコ、ボウリングといったアミューズメント部門、アパレルや旅行社のほか、ピアノ教室、サウナも加わり手広くビジネスを行っていた。
 なんであれ働ければいいという考えしかなかったから特に希望の職種もない。強いて言えば、出版事業が傍流にあるようだから、そこに潜り込めたらいい。そんな昼行灯のような状態で迎えた一次面接は、人事部の社員と係長を相手に大阪で行われた。薄ぼんやりした受け答えながらも通過。二次面接は本社のある府中で行われた。

失礼しますとノックし、部屋に入ると立派なデスクの向こうに専務が座っていた。はて、二次面接で早くも幹部が?しかもひとりで?と怪しんだ。控え室にいた他の学生も同様に専務が対応したのかわからない。だが、面接の最初の質問は明らかに他とは違ったろう。

「今からあなたにとって少々不愉快なことを聞くかもしれません。思想的な背景についてです。というのも以前、韓国からのスパイが入ったためです」

オーナーは朝鮮総連とも関わりがあったため、日本の公安やKCIA(現・国家情報院)から監視されていたようだ。私は内心「思想背景って、もうこんなの会社の面接ちゃうやん」と思って吹き出しそうになった。どのレベルの話をしたものかと一瞬迷ったものの、父が学生時代は朝鮮総連の下部組織の留学生同盟の専従活動家であったことを伝え、「北朝鮮への帰国事業では帰還船に乗ろうとしていたそうです。幸い祖母に止められたそうですが」と答えた。
「幸い」というのが相手にどう響いたのかわからないが、専務としてはその答えでもう十分だったのか。その後は特に何を聞かれるでもなく雑談に終始した。数日後、採用合格の連絡があった。

創業者が東京は府中において商売を始めた際、地元に受け入れられたことから地域社会に貢献すべくビジネスを行ってきたのは紛れもないことだ。その一方で故国を忘じ難いのも本当のところだ。そこから朝鮮総連と接点を持ったのだろう。何しろ長らく韓国は軍事独裁政権に牛耳られており、半島の将来を頼むにはあまりにも無残だった。だからと言って北朝鮮が素晴らしかったわけでもないのは、後年わかることではあったが。
 私が入社する前に、創業者はTBSの報道特集の取材を受けており、北朝鮮の体制を支持できない旨をはっきり述べていた。北朝鮮の核問題で揺れる最中の1994年3月末、生まれ育った神戸を離れ、東京は府中の隣駅、分倍河原にあるワンルームマンションの社員寮に越した。

分倍河原は何もない町だった。
 というより、駅前の閑散とした小さな商店街を抜けてマンションに至る道のりには私には特筆すべき何かがさっぱりないように見えた。宅地開発された町はコンビニと自販機が代わる代わる現れるだけの、彩もなくのっぺりとした表情を見せるのが普通なのかもしれないが、そのようなところに住んだことのない私には抑揚のない風景はこたえた。散策のしがいがないというか。ささくれ立つような感覚が身のうちに生じる。

関東ローム層の土は近畿に比べて黒く、風は乾いていた。桜が散り、緑が勢いを増そうとしていた。木々が枝を伸ばしていく生命の横溢の季節は、どこか目を覆いたくなるような猥雑さを感じさせ、それがこちらの心身の不安定さをいや増して、「この先やっていけるのだろうか」という漠とした不安を確固としたものに変えようとする。
 不安の要素は、辞令によってさらに加わった。
 私にはアミューズメント部門すなわちパチンコ店への配属が命じられた。人事部長に「なぜですか?」と問うたところ、「これからのパチンコには哲学が必要だ。聞けば君は哲学科出身ではないか。大いに励んでくれたまえ」と返された。

これまでの人生でパチンコをしたことがない。配属前の研修では食品部門で魚をさばいたり、ボウリング場で働いたりしてきたが、その中でも一番合わなかったのがパチンコだった。大音量で流れる音楽とタバコの煙がもうもうと立ち込める中、大当たりが出れば「おめでとうございます」と一礼し、玉を入れる箱を替えて、また一礼して立ち去る。店長からは「マクドナルド並みの接客を目指す」と言われ、きっかり45度の礼をして客に応じなければならなかった。
 自分が関わらないところであればパチンコに精出す人がいても別に構わないのだが、いざ働き始めて日々関わりを持つと「別に構わない」という態度を維持するのは至極難しい。
 開店から閉店まで毎日通い詰める客が複数いた。オールバックの演歌歌手のような風情の50がらみの男性とスモークレンズのサングラスをかけた、アニマル模様のニットを着た女性、ひっきりなしに吸うタバコと缶コーヒーを煽る仕草が若いはずの面相を老けて険しく見せてしまう女性。弛んだ体とパチンコ台を食い入るように見る目の、集中しているはずなのに呆けて見えるありように、偏見とわかりつつも生活の荒みや低調さを思わずにはいられなかった。
 彼や彼女たちに敬意を払う気が起きない。頭を下げたくはない。だが、そうした客によって私は給料を得ている。この辻褄を合わせるのは、どういう理屈なのか。とりあえず世間を知るためには3年程度は何の仕事でもやったほうがいい。いつ備わったかしれない常識が私に向かってそう説く。

仕事自体は早い段階で売り上げの回収に携わり、現金を扱わせてもらうなど、目をかけてもらっていた。また給与は他部門に比べてもよかったし、一日中ホールを歩き、玉が詰まるなどトラブルが起きれば直しと、ある意味では楽な仕事だった。
 ただ、24歳の私には、これが今後のキャリアになるとまったく思えなかった。
 しかもキャリアと言ったところで、この先に何になりたいのかの像があるわけではない。やりたいこともなければ、何かできる力があるわけでもない。明らかなのは、ただここにいたくないのと客への嫌悪感とそんな偏狭な見方をする自分への苛立ちであった。このサイクルがぐるぐると頭の中で回り続ける。かといって次に何をしたいかもわからない。そうした自分こそが最も低劣なのだと自嘲しても何も変わらない。「この生活というやつの正体はいったいなんなのだ」というのが当時の私の口癖であった。

入社から3か月を迎えたある日、客の台が大当たり中に玉詰まりを起こした。近くにいた私が直すべく駆け付けた。だが鍵を開けて習った手順の通り調整しても直らない。どう扱っていいか皆目見当がつかない。そこで同僚の塩田君に応援を求めた。法政大学の3年生の彼にはそれまでにも度々助けられていた。
 塩田君は台の様子を見ると、一旦電源を落とした。すると、客は「おい、大当たり中だぞ!」と大声をあげる。塩田君はニヤリと笑い、客の方に流し目をくれつつ、こう言い放った。「お客さん、俺らこれで飯食ってんすよ。任せておいてくださいよ」

台の扉を閉め、大当たりの明滅するランプが点く。それを見て「辞めよう」と決心した。私には彼のようなプライドとそれに伴う技術もない。心中、悪態をついたり、こんな仕事をやったところでなんになると呪っているだけの自分はお金をもらう資格がない。翌日、退職願を提出した。
 分倍河原には何も見出せないまま夏が終わりを迎えようとしていた。
 唯一この街で見つけた徴は、親友が大好きなドクターペッパーを扱う自販機が駅前にあったことだった。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。

第14回 大阪:1990(鶴橋3)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

今夏、吃音について綴られた『どもる体』の書評を依頼された。「どもる」とはどういうことなのかについて当事者の話を交えつつ、吃音の謎に迫った内容だった。ページを繰るごとに我が身を振り返らざるを得なくなったのは、私には話そうとすると急に言葉が出てこなくなり、会話がつっかえてしまうことが時折起きるからだ。本書を読み進めるに従い、ひょっとしたら私の状態は吃音症でいう「難発」に近いのかもしれない、そう思うと、どもる体を抱えた人たちにずいぶんと親しみを覚えた。
 何かを言おうにも言葉が出てこない。こうした現象は20代の頃は今よりずっと頻繁に起きていた。そのため話ぶりはいつも倒けつ転びつという感じであり、話をする前に整えるべき支度が多く、常に緊張を強いられ、体は強張った。何気ない会話というものがありえない。まして冗談を言ったりするのはまるで手に負えないことだった。

今以上に滑らかに話せない時分を思うと、いっそう記憶に鮮やかに蘇るのは、鶴橋で出会った子供たちの口の達者さであった。話題の切り返しの速さ、言い間違いや失敗をした瞬間に突っ込んでくる瞬発力は、たとえば椀子そばのおかわりを継ぎ足す給仕、あるいは餅搗きの餅を返す手練れの合いの手にも似ていた。
 そうした巧みさはどこを目指していたかといえば、オチに向かっていた。
 いわゆる「笑いを取る」という目的に対して無自覚にフォーカスがなされていたように思う。

大阪を初めて訪ねた人から「電車の中の子供同士の何気ない会話からして漫才みたいだった」という感想を聞いたことが何度もある。「せやろ? 大阪の笑いのレベルは高いねん」と素朴に喜ぶような大阪人は、さすがに21世紀にもなれば少なくなったと思うが、前世紀はそう自負する人はそれなりにいた。
 お笑いと言えば大阪というステレオタイプの表現に鼻じらむ思いはしつつも、確かにアマチュアなのにテンポもいいし、独自のノリを持っている人もなまじいたものだから、笑いの裾野の広さとレベルをそれなりに誇るという気風が、大阪のみならず神戸でも前提になっているところがあった。
 そのためにおもしろいことを言う局面ではないにもかかわらず、笑わせないといけないといったプレッシャーを感じ、ただでさえ軽いどもりもあったものだから、私はしゃべることにひどく難儀した。
 後に東京で住み始めた際、知り合った人たちが揃いも揃ってオチを用意することなく、笑わそうとする気もなくだらだらと話し、周りも「そうなんだ」で済ませていることにひどく驚いた。「オチはないんかい!」といちびって(ふざけて)身を乗り出しては大仰に突っ込む人もいない。話す人も特に上げたり下げたりと高低差をつけないでフラットに話している。
 当初は関西では馴染みのある、自分を下げることで相手を笑わせるようと私なりにがんばっていたけれど、東京の人はあんまりそういうことをしていなかった。それを関西圏の人々は「東京人はプライドが高い」と語っていたが、そうではなくそれはたんなる文化的な癖(あるいは習慣)でしかなかった。東西の文化の違いに初めは奇妙さを覚えたものの、慣れるにしたがって「そもそもどうして毎度笑わせようとしないといけないのだろうか」と、東京の会話の運びを楽に感じるようになった。
 つっかえながらしゃべることしかできない身でありながら、私もそれなりに笑わせないといけないという強迫観念に取りつかれていたのだ。その源は何かと言えば、よくよく思えばテレビを通じて知った吉本興業の芸人が提供しているパターンに過ぎず、それをあたかも笑いのすべてであるかのように思い込んでいた。要は単なる習慣によって身につけた所作を「笑いのセンス」と取り違えていたのだった。

今では誰もが知るようになった「ボケ」もかいつまんで言えば、「自分を下げることで相手を笑わせる」になるだろう。自らを卑下する、弱い立場に置くことの効用は、無知でありイノセントであることを武器に、時に偏見や非常識なことを言うことで、そうした考えを持つことに疑いを抱かない強者の傲慢さをクローズアップするところにあるだろう。
 思えば、鶴橋の子供らのしゃべりのうまさと笑いは、そうした大阪の笑いの土壌を共有しつつ、弱く脆い被差別の立ち位置がもたらしたところは大きかった。抗いがたい現実や自分たちをバカにしてかかるマジョリティの振る舞いに対し、マイノリティがその言動をいじり、突っ込み、茶化す。強者の無知と愚かさを暴露することで、「そうやすやすと言うことを聞くような自分ではない」と己の存在を知らしめる威嚇の手段に笑いはなり得る。
 こうしたマイノリティからマジョリティに向けての「笑いによる抵抗」という見立ては、大阪での笑いをめぐる神話と相性がとてもいい。
 自分を卑下して笑いをとる手法が定番ということは、あくまで自分は弱い立場の庶民であり、そうして自分を下に置きつつ「王様は裸だ」と相手を笑いのめすわけだ。そのため笑いとは権力者に対する庶民の知恵であり、そこが弱者のしたたかさであり凄みなのだ。私の記憶の限り、関西の文化人や芸人たちは折に触れてそう言い、上方文化の反権力性を誇った。
 だが、本当にそうだろうか。

弱者が強者を笑えるのは、あくまで道化師として、ヒット&アウェイでしかやれない。「そうやと思うで。知らんけど」といった具合に語尾に「知らんけど」を付けたがるのは、そうして姿をくらませないといけないと潰される、という危機感のなせる技が編み出した手法かもしれない。
 けれども、大阪人自体が笑いの効能について語り、「笑いは反権力なのだ」と自己言及するようになって明らかに局面は変わったと思う。強者と真剣に対峙する局面に至ってもなお笑いでごまかし、逃げる道を用意するようになってしまっているのではないか。

相手を上げて落とす。自分を卑下して笑いを取る。テレビを通じて全国区に広まった大阪の笑いの定石が今現在にもたらしているのは何かと言えば、かつて天才と言われた漫才師を筆頭にした関西系の芸人の強者や為政者に寄り添った、ユーモアを欠いた言動の惨憺たるありさまだ。オチを聞いてから哄笑までのあの真空のような一瞬を楽しみ、ユーモアを味わうことは少なくなった。
 漫才師には貧困や被差別といったマイノリティの刻印を持つ者は多い。そこから繰り出された尖った言葉は文字通り、マジョリティを撃っていた。しかし、かつて弱かった者が力を手に入れると、これまでのことを忘れて、手に入れた強者の価値観でものを言うようになる。
 そうなった彼らがボケて相手や自分を上げたり下げたりしたところで、それはもはや卑屈かつ傲慢であることにしかならない。実際、彼らのセクシャリティや貧困、政治をめぐる発言に見られるのは、弱い立場の人たちの尊厳を傷つけることが笑いに数え入れられている様子だ。いつから笑いはあからさまに人を嘲笑うことを許すようになったのか。
 たとえば「ゲイを笑ったところで、そんなに目くじら立てなくてもいいんじゃないか。個性を尊重するダイバシティもいいけれど、それこそ個々の感性や意見に対して不寛容であれば、個性の尊重とは言い難い」という意見がある。一見、もっともらしく聞こえてしまう。ゲイに限らず、マイノリティを下に見て笑う感性は個性なのか? といえば、それはこれまで常識とされてきた差別におもねることであって、まったくの鋭さを欠いた視点でしかない。
 そうして従来の見方を変えることなく、笑ってもいい対象をすばやく見つけるのが笑いのセンスになっているとしたら、その「ネタにする」という手つきの無意識さを見直した方がいい時代になっている。そう思うのは、大阪のローカル番組を発祥とした、あけすけな差別感情を垂れ流すことを庶民の本音とするような風潮がキー局のバラエティ番組にも見受けられるからだ。それは本音でもなんでもなく、「自分とは一体何者であるのか?」「発言の意図は何か?」を直視しないでいるだけではないか。卑屈と傲慢の往来が市井を生きる者の知恵だとしたら、それはたんに真摯さの拒否でしかない。
 大阪の笑いの手法が全国区となったいま、ユーモアとは何かが改めて問われる時節になっている。かつて天才と言われた人が体を鍛えるにしたがって、発想もマッチョになり、どんどん己の言動に対して無感覚になっている。その凋落を見るのは全盛期を知る身としてはとても悲しい。卑下は権力者を笑うための方便だったはずが、いつしか卑屈さは内に逞しくした傲慢さを発揮する手法に成り果てた。
 かつての天才のボケに息を飲み、笑い、おかしさに腹を抱えて涙を流したのは、通俗に沿った解釈にならない出来事がそこで起きていたからだ。

ただバカにすることが笑いになりようもない。性的指向や変えることのできない容姿、民族性について、マイノリティが卑下して笑いとばして来たのは「現実は一筋縄ではいかない」というのがわかっていたからだ。マイノリティが自らを笑うのは、「それについては笑い飛ばしてもいい」と世間にお墨付を与えたわけではない。「笑うおまえは何者か?」をその笑いは含んでいるからだ。
 弱く脆い者が自らを笑うとき、自分の足で自分の尻を蹴り上げている。
 それでバク転のひとつも決められたら、そのとき空中で何を見るのか。
 天と地がひっくり返る束の間の景色。それが笑いではないかと私は思っている。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。