第9回 京都:1976(3)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

母が亡くなった半年後の初夏、祖母が逝った。私はなぜか喪主である叔父の家に早く着くのを厭い、地下鉄を使わず河原町駅から1時間ほどかけて向かった。道中、思い出すのは、母と祖母の仲だった。
互いに面と向かって悪罵を浴びせるわけではないものの、法事などで顔を合わせての二言三言のやりとりは、刃の交叉にも似て火花が散るようであった。決定打を許さないせめぎ合う間柄であったから、好敵手を失ったことによる気落ちが彼女の死期を早めたものか。

棺に納められた、蝋のような祖母の顔を見ると、幼い時分は会うと決まって顔を撫ぜまわされた挙句、頬ずりせんばかりに密着を求められた時の感触が蘇る。ずいぶんな可愛がられように素直に身を預けられなかったのは、すぐ近くに控える母の不穏な様子を目の端で捉えていたからだ。前門の虎、後門の狼ではあったが、それぞれから受けるストレスには違いがあった。

母から受ける圧は、「姑におもねてはならない」という厳命を含んだ無言のメッセージであり、祖母からのそれはあまりにお構いなしに近づく距離感のなさであったが、当惑を引き起こしていたのは、彼女の話す言葉がうまく理解できないということが一因としてあった。

祖母が私に話しかけていることはわかる。しかし、それは私の使っている言葉と少しズレているようでもあり、耳を傾けても聞くそばから言葉がこぼれ落ちていくような、手を伸ばしても空を切り、意味のまとまりとしてつかめないようなものであった。祖母の話す言葉は私にとっては常に亜脱臼している感覚をもたらした。

幼い頃は、自分の話している言葉を「日本語」として明確に認識することなどなかった。「日本」や「言語」という概念も知らず、言葉はただ身の内から溢れる音のつらなりでしかなく、自然と湧き出て来るようなものであった。だが祖母の話す「日本語」は私のしゃべる普通の言葉とは明らかに違っていた。京言葉でもなかった。

それは日本語であって日本語ではないような、不思議な調べだった。やがて賢しらにもいっぱしにものを述べるような年齢になると、韓国語の抑揚が日本語を浸しており、それが私にとっては意味を捕まえにくい、わかりにくさをもたらしているのだと知った。そうした理解を私に可能にさせるほどの小利口さは、同時に祖母の話す日本語を「真っ当ではない言葉」だと、標準から比べて低く見るようにしむけていった。

クレオール言語の存在もまだ知らなかったのも確かだが、彼女の話す言葉を亜流と決めつけたのは、いつも床に座るときは立て膝をついていた祖母の口から発せられる日本語がひどくぞんざいで野蛮に感じられたからだ。
時と場合に応じて言葉の丈が伸び縮みすれば柔和さや丁寧さに変わるものの、祖母の言葉はいつもぶっきらぼうで、ひどくほつれていた。お腹が減っているかどうかをまず相手に尋ねる前に「食べろ」と言い、訪う人に「どなたですか?」ではなく「誰や」と誰何[すいか]する。

父が路地の住人をそう見たように、私が次第に祖母に「文化の低さ」を見てとったのはものの言い方だけではなかった。祖母は文字が読めず、書けず、料理と呼べるものは満足にできず、魚は焦がし味噌汁は湯に味噌を溶くだけのもの。感情のうち怒りが大いに発達しており、抑えが効かず周囲とうまく関係を取り結べない。すべてが低調に思えた。

それでいて父に言わせると祖母は「お嬢さん」だったという。長らく嘘だと思っていた。

祖母の死から数年後、長兄の叔父に話を聞く機会があった。そこで私は彼女の振る舞いの上辺をなぞるだけで何ひとつ見てもいなければ、聞いてもいなかったことを思い知る。彼女は確かにソウルで育った「お嬢さん」だったのだ。

いつもそばにいて当然であるがゆえに、誰しも親兄弟について改めて知ろうとする機会などあまりないだろう。叔父も同じく、実母がいることが明白な以上、いつ生まれどのように青春を過ごしたかなど敢えて聞くこともなかった。

ただ彼女が切れ切れに話す半生や持ち合わせた写真、戦後になってソウルに住む親族と交わし始めたやりとりからわかったのは、祖母は日本の統治時代の朝鮮で女学校に通っており、街に買い物に出るときは必ずお付きの者がいたというような暮らしをしていたことだった。

戦前、日本人でも女学校に通う子女は限られており、それを可能にするような層は家に使用人を置くのも当然であった。叔父に見せられた祖母の遺品の中の写真には、親族の警察官の姿が映っており、植民地経営の支配側に与したのは明白だった。

祖母の実家は同時代の朝鮮のエスタブリッシュメントで、それなりの文化資本があった。そこで不意に思い出したのは1981年、家族で韓国に旅行した際、ソウルに住む大叔母を訪ねた時のことだ。

日本でいうと古民家にあたる、伝統的な様式で造られた家屋の少しそった屋根は瓦で葺かれており、もとは木であったところが鉄扉に変えられた門をくぐると中庭が広がっていた。そこにキムチを漬けるのであろう大きな甕がいくつも置かれていた。庭に面した廊下に姿を現した大叔母は祖母の妹だけあって容貌は驚くほど似てはいたものの、祖母のように険のある表情はなく、ゆったりとした歩き方や微笑む様は品を感じさせ、とても好ましく思った。

「こんにちは」

そのあとにどんな言葉が続いたのか覚えていない。しかし、私はいまになってなお、あれほどきれいな日本語を耳にしたことがない。そのことだけは記憶に鮮やかだ。

山の手言葉の雰囲気を持った、韓国語の訛りのない日本語は、もともとの彼女の涼やかな声音もあって耳に心地よかった。藤色のきれいなスカートを履いた大叔母が床に座るときの、立膝をついた格好はいよいよ祖母に瓜ふたつで、似通った人物がまったく異なる佇まいであることにひどく困惑した。あまりに落差があったことで、祖母もまた良家の出であることに考えがついぞ及ばなかった。

姉妹は揃って女学校に通っていた。教養もあり上品な大叔母は、あり得たかもしれない祖母の姿ではなかったろうか。そう思い至ると、彼女が煮炊きのできないのも納得できた。炊事は彼女ではなく家中の人間がするものだった。

では、女学校に通っていたにもかかわらず、どうして文字の読み書きができなかったのか?と叔父に尋ねてはみたものの、発したその疑問を追い越すように、なぜ「文字」を日本語に限定しているのかという問いが走り、自らの迂闊さを嘲笑った。

叔父はいう。

「おばあさんはね、不良少女だったんよ。勉強が嫌いで、ある日学校帰りに教科書を全部川に投げ捨てた。それで、このままだと叱られると思って家出したらしい」
家出した先が日本だったという。出奔した時期はおそらく1930年代の前半というだけで、はっきりした年月はわからない。

ソウルから京都へは関釜連絡船と鉄路を継いで1000キロあまり。10代の少女が軽はずみにも独行したにしては、叔父の詳細を欠いた説明との隔たりはあまりに大きい。玄界灘を往来する人は多く、内地に定住していた誰かを頼って来たはずだが、今となってはソウルを去った本当の動機や顛末を知るものはいない。

確かなのは、祖母は日本語の読み書きが身につかないまま出奔し、実家におれば裕福な暮らしができたものを、日本にやって来てから経験しなくていい辛酸を舐めたことだ。加えてソウルであれば身分違いとして結婚などできなかった、貧農出身の祖父と京都で家庭を持つことになったということだ。

祖父についてはさらに祖母よりも人となりを伝える話は断片的である。目に一丁字[いっていじ]もなかったのか、あるいはそんな暇などなかったのか。日記を綴っていた気配は微塵もない。職業名のつくような仕事をしておらず、肉体労働で日銭を稼いでいた。憂さを晴らすべく飲んでいた酒に溺れ、メチルアルコールにも手を出していた。祖父の流浪の物語の最後は、父によるとこうなる。

「物心ついたときには、親父はもう親父ではなかった」

人格としてのまとまりはとうの昔に綻んでいた。

あたりを徘徊し、糞尿を漏らす祖父を舌打ちして咎め、打擲する祖母の姿を父は酷い記憶として話したことがある。

祖母は寡婦になった。戦況は日に日に悪化し、やがて京都も爆撃にさらされるという噂を聞き及び、子供を連れて福井へ疎開することにした。ツテをたどって家を借りられたものの、引越しを済ませたその日に大家になけなしの家財道具を表に放り出された。朝鮮人に貸す家はないという理由だった。

祖母の流離は京都に再び居を定めても終わることはなかった。日々のたつきを得る方法が定まらない中、決して安住することなど叶わなかったからだ。どのようにして一家が生き延びたのかわからない。はっきりしているのは、再び京都へ戻ってからの7人の子供を抱えた暮らしの貧寒さは凄まじかったことで、かろうじて明らかなのは、配給も望めない戦後の物資の欠乏した時代に祖母が占いをしていたことだ。正しくは占いを生業にせざるを得なくなった、ということである。

叔父はためらいがちに言った。

「占いをしてお金を稼いでいたんよ。僕らにはようわからんけれど、ある日突然、“神様の声が聞こえる”と言うてね……。包丁を手に持って踊って、最後にそれを投げるんよ。その時は“危ない”って言うて周りは逃げたわ」

祖母の狭い部屋の一角を占める仏壇の奥に掲げられた、いつも蝋燭に照らされて光っていた金色の仏画を思い出す。あれは大日如来ではなかったか。

仏壇に手を合わせる祖母は、仏への帰依よりも、仏を借りて念を増幅させるような、どこか「呪」に近い、禍々しくて直視を避けるような雰囲気を漂わせていた。

雅な暮らしから遠く離れた京都の地で、祖母は初老を迎えるあたりに突如、神憑りとなった。韓国ではそれを「降神巫」[こうしんふ]という。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。

第8回 京都:1976(2)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

20余年住んだ東京の半ばを千駄木で過ごした。
私の住んでいたマンションは、乱歩の作品に「D坂」として登場する団子坂と武者小路千家のある狸坂のあいだに挟まれた、細く狭い大給坂を登りきったところにあった。地元にもあまり知られていないこの坂をタモリが好きだという。なかなかにシブい趣味をしている。
 坂の勾配でついた歩みの勢いを止めず、そのまま惰性に任せて行けば谷中に行き着く。『ミシュラン』で取り上げられてからというもの下町情緒を感じられる「路地」の残る町として、以前に増して海外から観光客が押し寄せるようになった。訪れた人たちは路地を見つけてはしきりと写真を撮り、そこにネコがいようものなら決まって歓声をあげた。

千駄木に住み始めてから谷中、千駄木、根津のいわゆる谷根千をよく散歩をするようになった。暗渠となった川の名残を律儀になぞる曲がりくねった蛇道や入り組んだ道を歩きながら新たにできた東欧の小物を扱う雑貨店やベーグルの店を見つけつつ、この辺りをきっと鴎外や漱石、らいてうも歩いたかしらと想像するのは楽しいひと時であった。
 散策中に家屋の隙間を縫うようにして砂利や飛び石の敷かれた路地に出くわす。そういう機会を重ねるにしたがい、「なるほど。路地はけっこうなものだな」と思うようになった。道なのか生活空間なのかよくわからない何かが都会の真ん中でぽっかりと口を開けている。誘われるままに路地をすり抜けると見知った道に唐突につながる。目の前にある建物や道路はいつも通りの済ました姿を装っているような、慣れた景色が違って見えることがおもしろく、千駄木の暮らしで私の中の路地の印象がすっかり塗り替えられた。
 ここでの路地はあくまで「ろじ」と発音する。
 京言葉では「ろおじ」である。
 私に巣食っていた「ろおじ」の記憶は暗くじめついている。

生まれて間もなくと3歳の2回ばかり、京都に住む父方の長兄にそれぞれ半年ほど預けられた。先述した通り、膠原病を患う母が入院したためだ。近くに祖母も住んでおり、しばしば彼女によって私は連れ去られた。祖母はたくさんいる孫の中でなぜか私を異様に可愛がった。
 丘の上の叔父宅を下り、大通りを斜交いに横切ってしばらく歩いたところに祖母は住んでいた。彼女がソウルから京都へ移り住んで以来、根を下ろした界隈の住所には「大路」の名が付いている。都の内を思わせはしても近代になってからの新参であり、ここはかつてならば洛外、鬼の棲む異界であったろう。近くに処刑場や風葬に選ばれた地があるのも頷ける。

母の退院後は実家の神戸に戻ったものの、盆と正月のたびに祖母のもとを訪ねなければならないのは気の滅入ることだった。路地は暗く、雨が降ってもいないのに常にじめじめとしていたからだ。
 アパートの向かいの道に沿って、痘痕のようにところどころがえぐれたブロック塀が並んでおり、その向こうに見える建物の荒れた様子からそこはてっきり監獄か廃墟だと思っていた。後に大学だと知ったものの、にわかに信じ難かったのは、まるで人の気配がなく窓はところどころ破れていたからだ。
 羅城[らじょう]の内と外であるとか化外[けがい]の地といった区分けをもちろん幼い時分は知らない。がしかし、物心ついた頃には祖母の住む地の、閑静とは言い難い、妙に静まりかえった様子に胸のざわつきを覚えていたのは確かだ。森閑としているのに何やらうるさい、蠢くような気配。長じてから私の感じるものを「念」と呼ぶと知った。ともかく腰を落ち着けることを厭わせる何かを感じていた。
 加えて祖母のもとを訪れるのが億劫だったのは、世間によくある嫁姑の陰険な争いの板挟みになるからだ。祖母と親しげにすると母の機嫌が悪くなり、かといって祖母を無視すると父が不穏になる。
 別れ際、祖母は決まって仏壇に供えていた干菓子を取りあげると「食べろ」と差し出す。狭い部屋の一角を占める仏壇に灯る蝋燭の炎にあおられ、その奥に見える金色の仏画はぬめぬめと不気味に光っていた。湿気って抹香臭い菓子には、いろんな念が絡まっているようで、受け取るのが嫌でたまらなかった。 
 

今春、祖母の住んでいた地を再訪してみたところ、かつてのトイレと台所を共用とした安普請のアパートは搔き消え、すらっとした外観のマンションに建て替えられていた。大学は見違えるように小ぎれいな格好になっており、華やかなキャンパスそのものといった学生たちの笑いさざめく声が聞こえて来た。かつての細い路地は拡張され、かつて感じていた気配は名残りを感じる程度に薄まっていた。
 記憶に任せて周囲を歩き始めると市営団地に行き着いた。その一階に野菜や日用品を扱う雑貨店を見つけた時、ここに字が読めない祖母の代わりに干菓子や蕎麦ぼうろを何度か買いに来たことが不意に想い起こされた。そうなると向かいには、祖母に手を引かれて行った銭湯があったはずだ。道路を渡ると確かにあった。だが、そこで初めて知ったのは銭湯というのは私の思い込みで、市立浴場であったことだ。
 浴場施設の入り口付近の壁には、「同和対策事業として近辺に建設された『改良住宅』に風呂はなく、市が公衆衛生向上のため設置したのだ」という旨を知らせる看板が貼ってあった。ところどころ文字の薄くなった表示を読むにつれ、父が酒を飲んだ時や幼い時分に満足に食べられなかった甘いものを頬張っている際、やおら彼が生まれ育った、この浴場からそう遠くない祖母のいた路地について話し始めたことを思い出す。

 
「俺が生まれたところは部落と朝鮮人部落が隣り合っていて、雨が降ったら地面がぬかるんでしまうような、どうしようもないところだった。便所は共同で、雨の日は特にひどい。とにかく貧乏人の掃き溜めだ。中でもうちは貧乏だったから家に壁なんかなかった。おまえたちには想像もできないだろう」

父が前触れもなく話す思い出のことごとくには沈鬱さ、垢じみた暮らしの風合いしか見当たらない。「豊かな暮らしができるようになってよかった」と現状を肯定する話につながるでもない。地べたを這う生活とは「貧しくも明るい」といった屈託のなさとは到底無縁なことだけはわかった。
 薄い板でこしらえた粗末な家屋に壁がないというのも外との仕切りは障子のみだからで、六畳一間に8人が暮らしていた。底冷えのする京都の冬であっても暖房はない。唯一の暖は布団にくるまることだけだった。床につけば身じろぎひとつできなかったのは、動けば隙間から冷たい風が入るからだ。まんじりともしない夜に寝返りを打つと、父はよく「寒い」と言われ長兄に殴られたという。

祖父はアルコールが原因で早々に亡くなっており、一家に安定した収入はなく、当然ながら食事が日に三度あるわけではなかった。空きっ腹を手っ取り早く満たすには、水を飲むしかないといった有様だ。
 おまけに食事にありつけたとしても祖母は元来料理ができない人であった。後年、その訳がわかるのだが、ともかく魚を焼くにも塩梅がわからず、炭になるほど焦がすのは当たり前。一度味噌汁を作るといつまで経ってもそれが減ることはなかった。食べた分だけ水を増すからだ。
 料理を味わうとは無縁のそんな食事は、祖母が密造酒をつくることでなんとか賄われていた。
 とはいえ、具のほとんどない、水のような味噌汁とわずかな魚を取り合うのだ。食べ盛りの腹がくちくなりようもない。飢えた子供たちは鉄くずや瓶を拾っては小遣い稼ぎに精を出した。末の叔父は送電線の銅線をぶった切り、銅の雨樋を剥がすといった悪童ぶりも発揮したという。
 法や社会が自分たちを守ってくれるわけではない。ならば己が生きていくことを実力で確保するしかない。叔父はそう心に誓うまでもなく、それ以外には生き抜くことができないと実践で学んでいたのだろう。
 実地の体験は教えてくれる。世間とはそれに則り、従うものではなく、サバイブすべき領域なのだと。幼い頃からそれを自覚せざるを得なかったのも意味があることだったのかもしれない。たとえば父はのちに高校の教師から「朝鮮人が雇ってもらえるわけないだろ」と、社会に出る前から正業につけないことを知らされ、就職の世話はしてもらえなかった。社会の成員とはみなされていなかったわけだ。

路地の外の人間が「まとも」と思っている生き方はここではできないし、期待もされていない。その境遇を嘆いたところで飯は食えないことだけははっきりしていた。
 叔父のように法を逸脱するのも厭わない徹頭徹尾のリアルさを、かつては王威の及ばぬ化外の地にふさわしい振る舞いだとつい思ってしまうのは、私が飽食暖衣の暮らしを経てきたからだ。叔父にとってはロマンティックな幻想など抱きようのない、吹きっさらしの現実でしかなかったろう。

貧乏長屋というよりは貧民窟というほうがふさわしい路地に住むものたちは日々生き抜いているだけで、そのやり繰りを仕事と思っていなかったかもしれない。男も女もバタ屋と呼ばれる廃品や襤褸の回収、飴売り、土工で日銭を稼いでいた。
父も西陣の染物屋に出入りしたり、飴をつくる小さな工場で手間賃を得た。飴をつくるのはその味ほど甘いものではなかった。ともかく熱いうちに伸ばさないといけない。作業は汗だくになりながらの手のひらの火傷を必須とするものであり、重労働だったという。
 体を使ってのきつい仕事から大人たちが寝ぐらに帰ってくると、まず求めるのは酒だった。祖母は彼や彼女らにマッコリを売っていた。だが、せっかく作った酒も時に警察が手入れでやって来、甕を見つけると手当たり次第に割っていったそうだ。きっと祖母のことだろうから地を叩いて抗議し、かきくどいたことだろう。
 祖母に限らず路地に住む人たちは激高する場面では怒声を放ち、喜びには快哉を叫び、悲しい時は身を震わせて泣いた。感じるところを隠すのを品とするような、都の雅さとは無縁だった。父はそうした慎みとは無縁の剥き出しさ加減を文化の低さとして捉え、次第に嫌悪するようになっていた。

ある日、男たちが路地に一頭の牛を運び込んだ。どういう経緯で手に入れたのかわからない。ともかく白昼、路上で牛が屠られた。帳の落ち始めた夕刻から宴が始まり、じめついた路地の方々で熾こされたカンテキの火が辺りを赤々と照らし、肉の脂で唇をぬらぬらと濡らした男たちは酒がまわり始めると例のごとく賭場を開き始めた。

たらふく肉を食うという滅多にない馳走と酒で有頂天になり、博打で興奮する人たちに、私は遣る瀬ない暮らしの憂さ晴らしを見るのだが、父はそこに自堕落と放埓さ、人間の底の生活をはっきりと見て取ったようだ。
 父の話はいつも断片的ではあっても、この日の出来事を伝える情景は私の中にひどく余韻を残すものとなった。ありありと路地の様子が想像される。酒でだらしなく酔いつぶれる人たちや博打に興じる人たちのその日暮らしの当て所のなさを悲しく感じている父が伝わってくる。
 現実を変えようとしない人たちへの失望。変えられない現実があることに対して立ち尽くすことしかできなかった、無力だった少年時代の彼の面影が赤々と熾った炭火に照らされて見えるような気がするのだ。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。