モヤモヤの日々

第93回 「まだ生きている」

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

辻潤(つじ・じゅん)の随筆「まだ生きている」(『絶望の書・ですペら』収録)は、「まだ生きている、というしるしになにか書いてくれというN君の註文によってペンをとりあげたところなり」の一文から始まる。この一文さえ読めば、先を読まなくても別にいいと思う名文である。

実際にこの随筆は、文庫(講談社文芸文庫)にして1ページ、たった9行の短文であり、最後まで読んだとしても、結局は最初の一文に辻の気持ちが端的に強くあらわれているのではないかと感じる。この人物の壮絶な人生についてはここで語る文字数はないが、よく言われる「文章の重み」とは、こういうことなのだろう。頭だけでこねくりまわした文章や、紋切り型の思考形式を使って書いた文章では、こうはいくまいと思う。さらに言ってしまえば、最初の一文を読まなくても、タイトルと著者名だけ読めばそれだけで十分なのもすごい。

その気になれば、誰かが辻のふりをして文章を書くことができてしまう以上、本当ならば印刷された活字の文章は生きている「しるし」にはなり得ない。今なら、その日付の新聞を持った自分を撮影し、ツイッターに投稿するなどの手段がある。だが、辻はたった9行の短文だけで、自分が生きている「しるし」を示した。それは辻の文章が唯一無二のものであり、誰が読んでも「ああ、これは辻潤の文章だ」とわかる、独創的な魅力を持っていたから可能だった。

ところで、僕も「まだ生きている」ので文章を書いているのであるが、辻のようにまだ生きている「しるし」に書いているわけではない。「宮崎は、もう生きていないだろう」なんて思っている人がいない(たぶん)から「しるし」を示す必要がないし、文章だけで「しるし」を示せる力量が現時点の僕にはあるのだろうか。ないかもしれないが、この連載が続いている以上、僕はなんとか元気にやっている。「しるし」を示せと依頼が来る前に文章を鍛えておかなければならないのはもちろんのこと、そもそもそういう依頼が来ないよう、なるべく元気に頑張りたい。

最後に、辻潤の「まだ生きている」は、最初の一文だけではなく、全文にわたって名文である。それを確認したうえで、もう一度、最初の一文に戻ってみたい。辻潤は、まるで言葉が人生のような人である。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid