モヤモヤの日々

第251回 大晦日の大晦日感(2)

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

明日は大晦日。

大晦日といえば僕が毎年、感心しているのが、大晦日の大晦日感である。年末の喧騒が収束し、すべてが納まっていくようなあの感じ。「なにはともあれ今年が終わり、新年が始まるのだ」とアングルが変わっていくようなあの感じ。心が元ある場所に戻り、ざわざわとした年末の雰囲気のなかにありながらも、ひとりで物思いにふける静けさに満たされていく。風が切り替わる瞬間の、束の間の空白。まるで凪に身を置くような静謐さと明瞭さが大晦日にはある。

365日の同じ1日に過ぎないのに、なぜか大晦日だけ特別視されている。別にいつから始めてもいい(10月1日とか)はずの行動目標を大晦日に立て、翌年に希望を託す気持ちが芽生えてくる。大晦日は、どこまでいっても大晦日であり、大晦日の大晦日感を出せるのは毎年、大晦日でしかあり得ない。

今年はどんな大晦日になるのだろうか。少なくとも僕にとっては、例年とは違った特別な大晦日になるに違いない。1年以上、平日毎日ほぼリアルタイムで書き続けたこの連載が今日で終了するからだ。まだまだ続けられそうな気がするし、書きたいことがたくさんある。終わるのがとても寂しい。

しかし、言葉だけでつくられた世界は、いつか必ず閉じられなければならない。結晶させて、定着せしめなければならない。だからこそ、何度でも出会い直すことができる。おそらくその出会いは、毎回、異なるものになるだろう。執筆した僕ですら読み返せばまた違う感覚を得て、新しいモヤモヤが生じてくるかもしれない。閉じられて完成すると同時に、そこから再びはじまる。それが書くという行為、ひいては読書という連綿と繋ぎ継がれてきた営みそのものだと思っている。

人生は一回性で再現不可能なものである。文章を書いたり読んだりする行為もおなじく一回性で再現不可能なものだ。そして、読者のみなさんの歩みにしたがい日常は変容する。ここに結晶させた日常とのズレが生じる。結晶させた言葉だけの世界とは違い、日常は続いていくからである。もちろん僕の日常も続いていく。変化していく。しかし、いつ戻ってきても2020年12月22日〜2021年12月30日まで、主に東京を中心に暮らしてきた僕の日常がここにある。それゆえに、僕自身もこの連載を何度も読み返すことになるだろう。そのたびに、2021年12月30日時点との接点を探し、変わらずに存在するものを確かめるだろう。変わっていったものを探して、思いを馳せるだろう。

読者のみなさんにとっても、僕の小さな日常に打たれた杭をもう一度、確かめるために戻ってきてくれるような文章になっていたなら、これ以上のよろこびはない。なぜならその杭には、当然、連載を応援してくださった読者のみなさんの日常も含まれているし、連載をリアルタイムで読んでいなかった同時代の人たちの日常も、僕の日常にまったく影響を与えなかったはずはないからである。

明日は大晦日である。読者のみなさんは、どのような大晦日を過ごすのだろうか。大晦日は、どこまでいっても大晦日であり、大晦日の大晦日感を噛み締めているのだろうか。僕は、明日の夕方には新幹線に乗り、妻と赤子と犬のいる妻の実家へと向かっているはずだ。願わくは、どうかみなさんの大晦日が幸せな大晦日でありますように。誰もがのっぴきならない人生を背負ったひとりの存在として尊重される大晦日でありますように。絶望の淵にいる人も、未来に希望が託せるような大晦日でありますように。それこそが大晦日が大晦日として、大晦日であり続ける大晦日の大晦日感なのだから。

この連載は、平日毎日17時に公開された。執筆するのは当日の午前や午後早くが多かったものの、読者のみなさんが17時以降に読むことを常に意識して書き続けた。僕が最も愛する詩人・中原中也が自身の詩集として生前に唯一、刊行した『山羊の歌』の最後の一行を引いて、この連載を閉じたいと思う。

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid