モヤモヤの日々

第124回 赤子の躍進

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

赤子(息子、1歳1か月)が立った。これまで長い間、ずり這いするか、掴まり立ちするかだけだったが、最近になって掴まり立ちでの伝い歩きが頻繁になり、たまに掴む椅子や机や壁を渡る際、完全に両手が離れている瞬間があった。そして昨夜、ついにしゃがんだ体勢からふたつの足で大地(床)を踏みしめた。のんびりめに成長していた赤子が躍進したのである。

昨夜、僕は風呂からあがり、タオルで体を拭いていた。洗面所にあるはずのパジャマを寝室に置き忘れて来たことに気がついた。下着を履いて肩からタオルを羽織り、リビングを通って寝室に向かおうとした。リビングのドアを開けると、赤子がいた。ハイハイのような格好をしてお尻を突き出し、産まれたての子鹿みたいにぷるぷると震えていた。まさかこれは……。

「立った!」。僕は思わず絶叫した。リビングのテーブルでくつろいでいた妻は、必死の形相で駆け寄り、スマートフォンを構えた。赤子の人生史上に残る決定的な瞬間。妻の両親と僕の母とは、専用のアプリを使って赤子の画像や動画を共有していた。コロナ以後に産まれたので、まだ十分に会わせてあげられていない。このチャンスを逃してはならないと、妻は考えたのだろう。

しかし、赤子はすぐに床に手をつき、元の体勢に戻ってしまった。「ああ……」と、妻と僕はため息をついた、その瞬間、再び赤子が子鹿になり、両足で立ち上がった。「立った!」。妻は絶叫し、慌ててスマートフォンを構えた。「立った。立ち上がったぞ!」と、僕も奇声をあげた。

そのとき、重大な事実に気がついた。僕はパンツ一丁だったのである。妻が撮影している映像から逃れるべく、僕は高校生ぶりに反復横飛びした。愛犬ニコルがキッチンに入るのを防ぐために設置された柵にぶち当たったが、そんなことはどうでもよかった。ニコルは音に驚き、ハウスから顔を覗かせていた。赤子を後ろから撮影していた妻は、スマートフォンを構えたまま赤子の正面に回り込んだ。僕はその動きを避けるように、また反復横飛びをした。「ワゥッ」。いつもは吠えないニコルが短く吠えた。

ほんの一瞬の出来事だった。しかし、たしかに赤子は立ったのである。妻とパンツ一丁は、赤子を抱きしめて労った。妻は撮影した動画を早速、アプリで共有した。すぐに妻と僕の母からコメントが付き、お祝いムードで盛り上がっていた。動画をよくよく観てみると、最後の0.5秒くらい、赤子が立った体勢からしゃがみ、ずり這いで彼方へと突進していく場面の隅に、僕の青白い脛(すね)が映り込んでいた。

むろんそんなことはどうでもよく、僕以外は気づいてさえいなかった。躍進した赤子はすでに眠っていた。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid