モヤモヤの日々

第12回 サイン

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

僕は字が汚い。小学生の時は習字を習っていたが、愚鈍だった僕は半紙にドラえもんの絵ばかり描いていたため、破門させられそうになった。後から聞いた話では、母が先生に菓子折を持っていって、「息子が楽しそうに通っているのは、このお教室だけですから」と頭を下げてくれたおかげで破門は免れたそうだ。6年間、なぜか僕だけ1級も進級しなかった。

前置きはこれくらいにして、さて、皆さんはご存知ではないかもしれないが、僕は2020年12月9日に『平熱のまま、この世界に熱狂したい 「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)という新刊のエッセイ集を出した。前著『モヤモヤするあの人』、共著『吉田健一ふたたび』を出したときに驚いたのは、読者の方がサインを求めてくれることだ。「僕なんかがサインしていいんだろうか」と恐縮していたのだが、著者としてはとてもうれしかった。

しかし、僕は字が汚いのだ。サインなんて考えたこともなかったし(余談だけど、この業界にはデビューするずっと前からサインを決めている野心家がたまにいる)、とりあえずは名前と日付を書いて応じていたものの、あまりに字が汚くて申し訳ない気持ちになっていた。

そんな矢先、前著のイベントでご一緒した作家の爪切男さんが、「爪」という四角い印鑑を押しているところを目撃した。「なるほど、こうすれば少しはプレミアム感が出るかも」と、僕はすぐに町の印鑑屋に行って、訝しがる店のおばさんをなんとか説得し、同じような印鑑をつくってもらった。しかし、それでも何故か爪さんのサインのようにはならなかった。

世の中には、字が綺麗な人と、字に味があるタイプの人がいる。字が汚く、味もない僕と違って、爪さんは少なくとも字に味がある。ご本人にも味がある。僕はイベント中、爪さんが何を言っているのかよくわからなかったが、イベント終了後に爪さんから「宮崎さん、ずっと何を言っているのかわからない話をしていましたね」と言われた。これではいけない!と、今回の新刊発売にあたっていろいろと考えた結果、僕はインターネットで見つけたサインをデザインしてくれる専門サービスに、「宮崎智之」のサインを発注してみることにした。

あまり複雑なサインは書けないと思い、「画数少なく」「簡単で書きやすい」「可読性、読みやすさ重視」を選択、納期短縮のオプションを使っても14,300円と、自分では納得できる金額だった。果たして数日後、サインが電子データで届いた。カッコいい! でもちょっと書きにくいかも、と思ったものの、書き順などの説明をよく読み、添付されていた懐かしい漢字練習帳のような用紙を擦り出して練習しているうちに、なんとか書けるようになった。

しかし、である。昨今の情勢では、リアルでイベントを開催することがなかなか難しい。そんなわけで、いまだに新刊に一冊もサインできずにいる。納期短縮オプションを使って、追加料金まで払ったのに。皆さんはご存知ではないかもしれないが、僕は2020年12月9日に新刊のエッセイ集を出したのである。これが売れないと、正直けっこうキツいのだ。前の著書に書いた下手くそな字のサインが、プレミアム物になるくらい頑張らないといけない。

 

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid