モヤモヤの日々

第28回 偉い犬

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

愛犬ニコルには、できるだけのことはしてあげたいと思っている。子犬の時期はしつけ教室に通ったし(ジュニアクラスを受講したので、ニコルの学歴は幼稚園卒だ)、愛犬家の集まりに参加して、いわゆる「犬の社会化」に取り組んだりもした。性格が穏やかで普段はどちらかというと怠けて寝てばかりいるのだが、興奮すると大はしゃぎする癖があるため、2歳4か月となった今でも家の近くで見つけたアットホーム、かつ安価なドックホテルのディケアサービスに定期的に通わせている。

そういう生活を維持するために、僕は一生懸命働いていると言っても過言ではない。本当に良心的で安価なドッグホテルなので、もっと通わせてあげたいけど、家計に無理がない程度で通わせている。ニコルはドッグホテルで「姫(ひめ)」と呼ばれているそうだ。僕はどんなに苦労しても構わないから、少なくとも今の姫としての生活は守ってあげたい。それが僕の心の張りになっている。

しかし、ニコルはただの姫ではなかった。ある時、いつものドッグホテルから、「今度、ニコルちゃんを無料で預からせてもらいたい」と連絡があった。そのドッグホテルは地域密着型で、いつも常連犬ばかりなのだが、初めて利用する子犬を預かることになり、その子犬の気性から社会化トレーニングのお相手として最適なのがニコルだというのである。今までどちらかというと教育を受ける側だったのに、なんという大抜擢だろう。いつもお世話になっているのだからともちろん快諾し、「お前は、なんて偉い犬なんだ」とニコルを褒めちぎった。ニコルはキョトンとした顔をして座っていた。

聞くところによると、妻の実家で飼っているラブラドール・レトリバー(オス、7歳)も、病気で手術が必要な犬のため献血に協力したことがあったそうだ。犬は偉い。偉すぎる。犬と比べれば、僕なんてカスみたいなものである。この連載だって、本当はニコルが書いたほうが人気が出るに違いない。しかし、ニコルは犬だから、仕方なく僕が書いているみたいなものだ。ツイッターでも僕よりニコルのほうが人気がある。一度、アンケートを取ってみたら、僕のツイートに求められているものは圧倒的に「犬」だった。僕の情報よりもニコルの写真をみんな見たがっている。僕だって同じ気持ちである。

果たして、姫のお勤めの日がやってきた。「あそこに遊びに行ける!」と気づいたニコルは、大喜びだった。1泊の計画だったので寂しさもあったが、笑顔で送り出した。手がかかった子どもが社会人になったとき、親はこんな気持ちになるのかもしれない。喜びと緊張が入り混じってそわそわした。

そして、翌日ニコルは帰ってきた。ドッグホテルに行った日はいつもそうなのだが、普段よりもさらに疲れている様子だった。心なしか、少し顔つきが大人っぽくなった気がする。一仕事を終えた社会人のように、短くため息をついて横になった。僕は飼い主として誇りに思い、ニコルを強く抱きしめた。

「悪い管理人さん」と一緒にタバコを吸ったり、「いい管理人さん」から「○○さんには、ちゃんと宮崎さんは大丈夫な人だって言っておきましたから」と言われたり、エレベーターで一緒になった年配の女性にバンドマンと間違えられたり、社会化が必要なのは僕のほうである。しかし、受け入れ先がないし、ニコルのような偉い犬から教えてもらうこともできない。そんな僕に飼われているニコルは偉い。

 

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid