モヤモヤの日々

第8回 彦

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

母方の祖父母の家には、彦(ひこ)という名の雑種の犬がいた。日向ぼっこが好きで、茶色い毛が赤茶色に変わり、最後は訳のわからない色をしていた。よく追いかけ回されていたから幼い頃は苦手だったけど、なんとも味があり、見た目のわりに賢い彦を次第に好きになった。

亡くなった父も動物好きで、家からクルマで5、6分ほどの祖父母の家に毎週行き、餌や散歩など、せっせと世話をしていた。外飼いだった彦を、夏はバケツを持って丸洗いしていた。

そんな幼い頃の牧歌的な思い出とともに、長年、不思議に思っていたことがある。というのも、父の名前は豊彦(とよひこ)なのだ。彦の名が豊彦から取られたのは間違いないと思うのだが、娘(長女)の夫の名前を犬につけるだろうか。あの、汚らしいけどなんとも味のある彦の姿を思い出すたびに、祖父母がなぜ犬に娘の夫の名前をつけたのか謎が深まるばかりだった。身内のことをこう言うのは憚れるが、祖父母はとても上品な人たちだったのだ。

この前、長年の謎を母にぶつけてみた。すると意外な事実がわかった。彦はもともと父が雑種の子を貰いうけて飼っていた犬で、姉や僕が生まれたこともあり母の実家のそばに引っ越そうと物件を探した際、犬を飼える家がなかなか見つからず、やむなく自然に囲まれた大きな庭のある母の実家にあずけることになったのだという。つまり「彦」とは、愛着を持って父が自分の一字から付けた名前だったわけである。なるほど。そういうことか。納得。

僕が小学校の中、高学年くらいのことだっただろうか。事情があって祖父母はその家から立ち退かなければいけなくなり、それを機に家を購入することにした。しかし、なかなか彦を飼える条件が揃った物件が見つからず、祖父母は頭を悩ましていた。そんな矢先、彦は予兆もなく、静かに息を引き取った。彦の年齢を推定するに、極端に早く亡くなってしまったわけではないと思うのだが、クリスチャンだった祖父は、「彦に可哀想なことをした」と、ずっと祈りを捧げていたそうだ。そんな祖父母と父は、いま天国で彦と一緒に暮らしているかもしれない。彦はきっと、呑気な顔をして日向ぼっこしながら昼寝をしていることだろう。

 

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid