モヤモヤの日々

第10回 管理人さん

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

住んでいるマンションには管理人さんがいる。「管理人さん」と言えば、高橋留美子先生の漫画が好きな僕としては、どうしても『めぞん一刻』の管理人さん(音無響子)を思い出すのだが、我がマンションにいる二人の管理人さんは、どちらもリタイアした後にこの職についた初老の男性だ。一人は生真面目で、細かいところまで気づいてくれる管理人さん。もう一人は、いつもニヤニヤしていて、くだらない冗談ばかり言ってくる管理人さん。今は名前を覚えたが、はじめ僕と妻は「いい管理人さん」、「悪い管理人さん」と二人を呼んでいた。

体を壊して4年半以上、断酒している僕だが、タバコだけはやめたり、吸ったりを繰り返していた。ちょうど今のマンションに引っ越して来たばかりの時は、禁煙に失敗している時期だった。部屋とベランダで吸うことを妻に禁じられていた僕は、8階からエレベーターで1階に降り、少し離れたところにある喫煙所まで歩いて、こそこそとタバコを吸っていた。

ある日、「悪い管理人さん」がニヤニヤしながら僕に近づいてきた。「これでしょう?」と言って、タバコを吸う仕草をした。「はい」と怪訝な顔でうなずく僕に管理人さんは手招きをして、マンションの端のほうに隠れたようにある、誰も通らず、どこにも煙が入っていかない「悪い管理人さん」が勝手につくった喫煙所を教えてくれた。さすが「悪い管理人さん」。

以来、僕はそこでタバコを吸うようになった。そのうち、タバコを吸いに外に出る僕を見つけるたびに、「悪い管理人さん」は僕と一緒にタバコを吸うようになった。はじめは百円均一で買ったような灰皿が申し訳ばかりに置いてあるだけだったその喫煙所に、二人分の腰掛けが設置されるようになった。そういう気だけは妙にきくのである。「悪い管理人さん」は、タバコを吸いながらいろいろな話をしてくれた。でも、話の8割は、昔の東京のことや、参加しているボランティア団体への愚痴だった。同じ話を何度も聞いていたが、不思議と飽きることはなかった。問題は、管理人さんの話が長いせいで喫煙量が増えたことである。

そんな僕も、ついに禁煙を決意し、実行することになった。ある時、外出先から帰ってきた僕に「悪い管理人さん」が寄って来て、「最近、あまり見ないねえ」と言ってきたので、「すみません。タバコをやめたんです」と伝えた。「悪い管理人さん」は少し悲しい顔をしながらも、「若いうちにやめられるなら、やめたほうが絶対いいよ」と笑顔で励ましてくれた。

今でもたまに例の喫煙所を覗いてみることがある。腰掛けが一人分になっていて、少し寂しげだ。このマンションには、ほかに喫煙者がいないのだろうか。後から知ったのだが、ベランダで吸うことは管理組合の取り決めで禁止されていた。なんとも健康的なマンションに住めてよかったなあと、僕は思った。これは、「いい管理人さん」の手腕なのかもしれない。

 

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid