モヤモヤの日々

第249回 人生の杭

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

妻と赤子(1歳7か月、息子)と犬が帰省し、東京にひとりで残って3日目。広いリビングで原稿を書こうかと思ったが、暮らしのなかで身についた習慣はそう簡単に変わるものではないらしく、やっぱりコンテナボックスだらけの仕事部屋で執筆している。普段、仕事部屋には赤子が進撃してこないように鍵をかけている。物が多くて、赤子には危ないからだ。

といっても内側からしか閉められないため、仕事部屋にいないときには小銭を使って外側から鍵をまわす。今はそんなことをする必要がないのに、無意識にやってしまう。「不在の存在」を実感している。

昨日は仕事が終わった夜、近所にあるお気に入りのアパレルショップに行って服を買おうと思っていたが、なんとなく外出するのをやめてしまった。ひとりで考えごとをしていた。とくになにかを考えていたわけではなく、ただ単にとりとめのない思いを頭の中で巡らせていた。新型コロナウイルスが流行して以来、外出する機会がめっきり減ってしまった。この連載を読んでくれている読者の方なら、僕の行動範囲の極端な狭さがわかるはずだ。来年はもっと外に出て、赤子と犬を連れ出したい。いろいろな人と会いたい。そのためには人と会うリハビリが必要だな、なんて考えていた。

今日と明日は外出する用事が入っている。明日は、ここ最近ずっと開催できていなかった地元の幼馴染みたちとの忘年会がある。この連載では定番のY君も来るそうだ。気心の知れた幼馴染みたちとの会合は、人と会うリハビリにもってこいである。どうせいつもの生産性のない会話が繰り返されるだけなのだろうけど、幼馴染みたちとはそれを30年以上もやっているわけであり、どうかしていると同時に、人生のなかに打ち込まれた杭(くい)のようなものが戻ってきたみたいでうれしい。ままならない人生には杭が必要なのだ。その杭が多ければ多いほど、不確かな人生が実感あるものになる。

この連載は、誰かにとってそのような杭になれていたただろうか。誰かにとって杭を見つけるきっかけになれていただろうか。もしそうならば、文筆家としてこれ以上のよろこびはない。たぶんそういったことを昨日は漠然と考えていたのだろうと思う。この連載もあと2回で閉じられる。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第248回 コーヒーの香り

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

昨日の正午過ぎに、妻と赤子(1歳7か月、息子)と愛犬ニコルが、妻の実家に帰省した。東京に住んでいる親戚が帰省するタイミングに合わせたため、昨日の出発となった。年明け締め切りの仕事を若干と私用を残した僕は、まだチケットを取っていないものの、少なくともこの連載が終了する12月30日頃までは東京にいる。なんか、ひとりになってしまった。

僕の実家には帰省したばかりなので、この年末年始は妻の実家にお邪魔することになった。赤子と犬の成長に、義父母は驚いているだろう。狭いと思っていたマンションの部屋は、3人(1匹含む)がいなくなると広々としている。そしてなにより静かである。静かすぎて師走の喧騒が窓に響いてくる。

普段はまったく気付かなかったけど、赤子と犬の臭いが部屋には充満している。ひとりになり、自分の体臭が嗅ぎ分けられるようになって、部屋の臭いを意識するようになった。赤子はミルクと汗が混じり合ったような臭い。犬は雨の日の草むらみたいな獣臭さ。臭可愛い(くさかわいい)ニコルの独特の臭いである。

もちろん、赤子と犬は排泄の世話が必要だから、言葉そのままの意味でも臭いときがある。しかし、犬はドッグフードしか食べないため実際にはそんなに臭くなく、最初はなかなか気づいてあげられなかった。ニコルは一部界隈から“姫”と呼ばれているだけあって、大きなほうの排泄をした場合、すぐに片付けてもらいたがる。早く片付けて、と懇願したような目をしてその場に座っているのだ。なんて可愛い犬だろうか。

35歳のとき、僕は慢性副鼻腔炎(蓄膿症)と鼻中隔弯曲症などの手術をした。以来、はじめて松茸が美味しいと思うくらいに嗅覚が回復した。ただのキノコが秋の香りがするキノコになった。だから一緒に暮らすのに慣れていくにつれ、ニコルの排泄にも気付いてあげられるようになった。

部屋に赤子と犬の臭いはまだ残っているが、数日後には消えてしまうのだろうか。今朝、起床してお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れた。赤子と犬がいないから、いつもより強くコーヒーの香りが鼻を刺激した。ひとり暮らしをしていた頃を思い出して、若返った気がした。コーヒーの朝の香りはその苦さが心地よかったけど、僕はちょっとだけ寂しくなった。なるべく早く仕事を終わらせようと、ひとりで呟いたりしてみた。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid