モヤモヤの日々

第185回 怪談プリンター

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

この連載の担当編集者である吉川浩満さんが、朝日新聞に「イヌを守れ、ネコの時代に」という文章を寄稿した。僕は同紙のデジタル版で吉川さんの文章を読んだ。議論が熱い。そして面白い!

ざっくり内容をまとめると、今は、ネコの超俗性、反社会性に人々が魅力を感じるネコの時代である。世俗性、向社会性といったイヌ的な自らの存在に嫌気が差した人々が、ネコを崇拝し始めている。「自らのイヌ性から目を逸(そ)らしつつ、外部のイヌ的存在(人間)を攻撃するようになる」といった事態にも発展しかねない。「いまこそ我々は自らのイヌ性を見つめ直し、それを善導する必要がある。ネコの時代の人間からイヌを守ること。そうすることで、ネコをまっとうに、自己嫌悪の裏返しとしてではなく、敬愛できるようにもなるであろう」。こんな感じだろうか。

生粋の犬好きで知られる僕はこの文章に深い感銘を受けた。せっかくの名文なので音読してみようと思った。生粋の音読好きでもあるからだ。音読するなら、出来れば紙に刷り出したい。そこで僕は、デジタル版の画面を仕事部屋にあるインクジェットプリンターで印刷したのだった。

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。あまり性能が良くないプリンターが一生懸命、記事を印刷してくれている。お、吉川さんの顔が見えてきた、と思った瞬間、キュルキュルキュル〜! と音を立て、プリンターが止まってしまった。用紙詰まりだろうか。しかし、エラー表示は出ていない。それはそうと、キュルキュルキュル〜! という音がどんどん大きくなっていくではないか。排紙口にぶら下がった吉川さんの半身が轟音と共にぷるぷると小刻みに揺れている。どうなっているのか。

と思ったら、今度はキュルキュルキュル〜という音が、徐々に小さくなっていっていることに気がついた。風船から少しずつ空気を抜くような弱々しいキュルキュルキュル〜が鳴り、さらには途中から、カチ、カチ、カチ、カチと秒針に似た音まで鳴るようになった。間違いない。このプリンターは爆発する。なのに、なぜだか体が動かない。ただ記事を刷り出そうとしただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。吉川さんは相変わらずぷるぷると揺れている。

どんどん音が遠くに遠のいていき、ついに止まった。万事休すである。もっと長生きしたかった。と覚悟を決めたのだが、音がとまったプリンターは吉川さんをぶら下げたままうんともすんとも動かなくなってしまった。そして約10秒の沈黙のあと、ザッ、ザッと短い音が二度鳴り響き、プリンターの排紙口から紙が発射された。吉川さんが飛んできた。プリンターでの印刷のされ方にまでこだわるとは、さすが小粋な人である。2枚目以降は、とくに問題なくスムーズに印刷できた。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第184回 筋トレ嫌い(2)

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

かわり映えない日常を過ごしているが、1歳4か月になった赤子(息子)の躍進だけは止まらない。赤子が赤子自身を危険にさらす無茶な悪戯をしたとき、赤子を抱えて制するのに現状で80%の力を使っていると先週のコラムで書いた。今週は90%の力を使うようになった。

さて、1歳4か月の赤子を相手に、もう余力10%である。体力をつける必要がある。しかし、僕は筋トレが大嫌いなのである。その理由についてはすでにこの連載で述べたので詳しくは割愛するが、とにもかくにも僕は今、意地でも強くなんてなってやるものか、という謎の使命感に駆り立てられているのだ。その発想を守ることに意固地になっていると言ってもいい。とはいっても目下の課題として、赤子はどうにかしなければならない。どうしたものか。

そこで僕は、筋トレをして自分を鍛える苦行よりも、赤子も僕も楽しめる戦略を選んだのだった。絵本を読み聞かせたり、赤子にたくさん話しかけたりして言語発達を促し、「◯◯君が危なくなる悪戯はやめようね」と説得する、という作戦だ。よく書店のビジネス書棚に「弱者の戦略」と謳われて置いてある「ランチェスター戦略」なるものも、きっとこういうことなんだろうと予想している(たぶん違うと思うので、関連本を読んで確認いただきたい)。

戦略は功を奏するのだろうか。それとも赤子の強さに滅ぼされ、筋トレを余儀なくされるのだろうか。今日も無茶をする赤子を90%の力を使って止めている。いや、92%くらい使っているかもしれない。赤子を抱く、青白くて筋肉がなく骨張っている自分の腕を見ながら、こんなひ弱な僕でも生活していける社会を意地でも守りたいと、たまに思ったりしているのだった。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid