モヤモヤの日々

第175回 親に似る

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

腰痛がすっかりおさまった。しばらく前から腰痛のない生活を送っていて、赤子や犬と遊ぶ際もおっかなびっくりしなくて済むようになった。それにしても人間(とくに僕)とは忘れっぽい生き物である。あれだけ痛かったのだから、身体のどこかがどうにかなっていたに違いないのだ。せめて一度くらいは医者に行くべきだとは思うのだが、痛みがなくなった途端、あれだけ痛かった感覚をすっかり忘れてしまい、足を運ぶのが億劫になっている。そしてまたいつか腰痛になる。

僕は忘れっぽい。亡くなった父も同様に忘れっぽかった。まだ元気だった頃、「おい、お前。この前のあれのあれはどうなってるんだ? ちゃんとあれしたのか?」と訊ねられたとき、さすがにそれは適当すぎると呆れたものだが、最近では父と似たようなことを言っている。「頑張らないと親に似る」という、マキタスポーツがTBSラジオ「東京ポッド許可局」で放った名言が胸に響く。

私生活でなら多少忘れっぽくても構わないのだけど、仕事ではそうはいかない。手帳に細かく仕事の予定を書く几帳面さもない。というか、たとえ書いたとて、僕は僕の汚い文字が読めないのだから仕方ない。しかし、父の時代と違うのは、今は高度なデジタル社会なのである。僕は仕事の予定が決まるやいなや、MacBook ProかiPhoneからGoogleカレンダーに書き込む。いくらでも細かく書き込めるし、前日や直前には通知をくれる。Googleがなくなったら、僕は明日からなにをすればいいのかわからない。完全に依存しているけど、なければ生きられないのである。

今朝、寝室でベッドに寝転がっていると赤子(1歳3か月、息子)が来て、「あぷあぷあぷ」と言いながら、マットレスをバンバンと叩き出した。僕は「赤ちゃんが来た! 赤ちゃんが来た!!」と叫び、赤子をベッドまで引き上げた。一瞬、腰に嫌な感覚が走った。赤子を抱えながら腰を慎重に動かしてみたが異常はないようだ。はやく病院に行く日を決めてGoogleカレンダーに書き込まなければいけないと思いつつ、それすら忘れそうな僕はどうすればいいのだろうと途方に暮れるのであった。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第174回 スティーヴ・アオキ

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

コロナ禍だからという理由だけではなく、引っ越して以来、ふらっと外出する頻度が減っていた。下北沢に住んできたときは、周囲が古着屋だらけだったので、原稿の執筆に詰まると気分転換に古着屋巡りをした。いつもだいたい同じルーティーンで回り、服を買ったり買わなかったり、原稿のアイディアが浮かんだり、浮かばなかったりしていた。今よりはだいぶ活発な日常だった。

お気に入りの店舗は、Instagramをフォローしていた。原稿に集中できていなかったある日の昼前、ふとInstagramを開くと、行きつけの古着屋のアカウントが新入荷商品としてブルーのブルゾンをアップしていた。カッコいい。しかもなぜか安い。僕はもともとブルーのブルゾンを探していたのである。その店は立地がよく、Instagramでアップされた後、店舗で即売れてしまうなんてこともある。急がねば。僕はまったく進んでいない原稿を一時中断し、その店に向かった。

僕が店に着いたとき、ブルゾンはまだあった。やっぱりカッコいい。生地もしっかりしているし、サイズも問題なさそうだ。よし買おう、と決断したところで、男性店員が近づき笑顔で声をかけてきた。「インスタ、見ましたか?」「はい」。僕は答えた。「スティーヴ・アオキでしょ?」。……スティーヴ?

何年前のことだったのか記憶が定かではないが、今でこそ僕はスティーヴ・アオキを日系アメリカ人の世界的DJとして認知し、尊敬もしているのだけど、当時の僕は無知だった。店員の話を断片的につなげることでスティーヴ・アオキがとても凄い人であること、そしてこのブルゾンは、そんなスティーヴ・アオキがデザインしたものだという事実がわかった。値段が安いのは店員の好きなスティーヴ・アオキを広めるための、赤字覚悟の値付けなのだという。

僕はまずいと思った。当時の僕はスティーヴ・アオキのことを一切知らなかったのだ。そんな僕が店員からスティーヴ・アオキのブルゾンを受け取っていいのだろうか。僕は正直に打ち明けた。スティーヴ・アオキのことを僕に教えてほしい、と。中途半端に知ったかぶりをしてしまうと、店員の気分を損ねて売ってくれないかもしれないとも思った。結果的にこの英断が功を奏し、僕は店員による熱い演説を20分ほど聴いて、スマートフォンでライブ動画も見せてもらった(「アオキ・ジャンプ」は、家に帰ってから、ノートパソコンの画面でしっかり目撃した)。無事、スティーヴ・アオキのブルゾンを購入することができたのである。

そろそろ衣替えの季節が近づいてきた。僕は今年もスティーヴ・アオキのブルゾンを着る。その日に会った人にスティーヴ・アオキの魅力を語る。そしていつか、そのブルゾンを着てスティーヴ・アオキに会いに行くのである。ステージの上にいるスティーヴ・アオキに。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid