モヤモヤの日々

第173回 偶然の駄洒落

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

久しぶりに哲学者・九鬼周造の著作を読み返していたら、「偶然の産んだ駄洒落」(岩波文庫、菅野昭正編『九鬼周造随筆集』収録)という随筆を見つけた。九鬼はこの随筆に「駄洒落を聞いてしらぬ顔をしたり眉をひそめたりする人間の内面生活は案外に空虚なものである。軽い笑は真面目な陰鬱な日常生活に朗かな影を投げる」と記している。なるほど、九鬼の言う通りだと思う。

さらに九鬼は「偶然の戯れが産んだ」駄洒落について、ふたつのエピソードを披露している。ひとつはこんな感じだ。九鬼は喫茶店に行って紅茶とビスケットを頼んだ。しかし、店員は「ビスケットってクッキーのことですか」と首を傾げている。九鬼はそのとき気がついた。今の若い人の間ではビスケットをクッキーと呼ぶのだ、と。クキがクッキーでグキっとした話である。

今の駄洒落が面白かったかどうかは置いておくとして、偶然に駄洒落が生じた状況に目を凝らしながら生活するのは楽しそうだ。僕も何度もこういう状況になった経験があった気がする。言葉とは不思議なもので「偶然の駄洒落」という言葉が与えられなければ、その事象をキャッチすることは難しい。逆に言葉が与えられれば感知できるセンサーが働き、そういう状況が意外とそこかしこに存在することに気がつく。冒頭からここまでの話を妻にし、僕はあるエピソードを披露した。

ある飲み会での出来事。仕事関係の飲み会で、知っている人は3分の1くらい。僕は前に用事があり、遅れて到着した。なんとなく僕が自己紹介する流れになった。「遅くなってすみません。宮崎智之と申します」と僕は言った。それだけではそっけないと思って、「宮崎ですけど宮崎県に一度も行ったことがない宮崎です」と付け加えた。一同は大爆笑だった。

妻は言った。「う〜ん。でもそれだと偶然ではないよね。ただ単に駄洒落を言っただけだから」。妻は、そもそも僕の駄洒落のどこが面白いのか疑問に思っているようだが、それを言うなら僕のほうが疑問に思っている。あの駄洒落のどこが面白かったのだろうか、と。妻は続けた。「『偶然』って言うからには、たとえばそこが宮崎県の郷土料理を出すお店で、苗字が宮崎で、さらに宮崎県に行ったことがない宮崎、っていう要素が揃わなきゃ」。妻は鋭い。その通りである。

その後、妻と一緒になにか「偶然の駄洒落」が生じた瞬間がなかったかと考えていたのだが、喉まで出かかっているのに、もう少しのところで思い出せない。悔しい。なにか「偶然の駄洒落」はなかったものか。しかし、当たり前だがこういうものは偶然に生じるものである。僕にできるのは、目を凝らして生活し、その偶然を見逃さないよう心掛けることだ。それにしても悔しい。読者にも「偶然の駄洒落」を経験した人は多いと思う。次は見逃さずにキャッチし、この連載で報告したい。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第172回 下北沢

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

つい3年前まで下北沢に住んでいた。最後の2年間住んだのは、妻と同棲するために借りたマンションの部屋だった。この部屋は、広さや駅に近い立地を考えると、驚くほど賃料が安かった。角部屋の二階。正面は映画のロケにも使われたことのある居酒屋、横は新鮮な食材が売りの人気居酒屋だった。夜中になると、終電で帰ろうとする女性と、それを必死で引き留めようとする男性とのやりとりが、階下で繰り広げられていた。僕はそれをよくメモに取っていた。

賃料が安いのは、周囲が騒々しいからだけではなかった。僕と妻が借りた部屋はもともと大家さんの親戚が住んでいた部屋だといい、マンション全体の設備を点検する際に出入りする扉がある。「ほとんどないと思うが、もしかしたら点検や作業でそこを通らせてもらうかもしれない」と事前に説明を受けていた。キッチン近くの天井に扉があった。普段は開かないようになっていた。点検や何かしらの作業が必要な際に連絡が来て、業者の人を案内すればいいのだろう、と思っていた。

その日、僕と妻(当時は彼女)は共通の友人たちと遊んで、早朝に帰宅した。朝9時過ぎ、僕は中途半端な時間に目を覚ましてしまった。トイレに行って再び寝室に戻ろうとしたとき、天井から異様な音が聞こえてくるのに気がついた。なにか金属を切断しているような、強烈に耳をつく音だった。しばらくすると音が止み人の声が聞こえてきた。人? 当時はすでにアルコールを絶っていたのだけども、僕はついに頭がどうかしてしまったのかもしれない。

そう疑問を抱いた瞬間だった。例の天井にあるドアの隙間から、銀色のワイヤーが出てきたのだった。これには驚いた。僕は慌てて駆け寄った。「すみません! 聞こえますか。すみませ〜ん!!」と何度も天井に叫んだが、ワイヤーはどんどん伸びて部屋の中に侵入してきていた。

試しにワイヤーをドア側に押し戻してみると、一瞬ピクッとして止まったものの、またすぐに伸び始めた。「すみません。すみませ〜ん!!」。僕はなおも大声で叫び続けた。このタイミングで、まだ酒が抜け切っていないであろう妻が起き、血相を変えて飛んできた。「どうしたの?」。僕は上手く答えられなかった。なにせ自分でもよくわかっていないのだ。いったいどうしたのだろうか。妻は変わり果てた部屋と、憔悴しきった僕を見て愕然とした表情をしていた。僕と妻はとにかく、「すみませ〜ん!!」と天井に向かって何度も叫び続けた。

ワイヤーはすでに4メートル以上は部屋に侵入してきていた。まさにカオスだった。混沌だった。しかし、僕と妻の必死に叫び声がこのワイヤーに関係しているであろう人物にようやく伝わったのか、ワイヤーは再びピクッとして止まり、わずかな沈黙の後、天井の扉の中に戻っていった。挨拶もなしに登場し、挨拶もなしに帰っていった。僕と妻は安心して寝室に戻り、その日は夕方近くまで寝てしまった。

僕は「ワイヤーが戻ってよかった。あのままで暮らさなければいけなくなるのかと思った」と、心からホッとしていた。後から訊いたところによると、妻は妻で「智くん(僕のこと)がついに頭がどうかしてしまったのかと思って焦ったけど、そうではなくてよかった」と心からホッとしていたそうだ。とくに不動産屋にも連絡していない。あれはなんだったのか。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid