モヤモヤの日々

第193回 勉強

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

学生時代は、受験の前以外はまともに勉強していなかったので、「勉強」に対してコンプレックスがある。コロナ以後、自宅での時間を持て余し気味になり、ただでさえ落ち着きのない僕は、「こうしている間にも、みんな努力しているに違いない」と気だけが焦っていた。少しは勉強しなければ、と。

学生時代、比較的得意だった日本史と古文から始めてみることにした。大人になってから勉強してみると、以前とは興味をそそられるところが違うようで、大和朝廷の成立前後や壬申の乱など、古代史がとくに面白く感じた。古文も助動詞の活用や接続くらいは、簡単に思い出した。勉強いけるかも。あまりやってこなかっただけであって、今からでも頭がよくなるのではないか。そう思った。

ところが落とし穴があった。なかなか勉強が続かないのである。日々の仕事や生活のあれこれに追われながら、ふと時間ができた時に「さあ、やるぞ!」と机の前に座るのだが、だいたいはツイッターを徘徊しているうちに時間が経ってしまう。やる気を出すには、やり始めるのが一番ということも知っているけど、やり始めることができない。一日のルーティンに組み込み、あれこれ考える前に始めている、という行動経済学でいう「ナッジ理論」的なものを表面的には導入してみたものの、僕のやる気のなさは、付け焼き刃の「ナッジ理論」くらいでは奮い立たせることができないのだ。少しでも忙しくなったり、生活リズムが崩れたりするだけで、脆くも計画倒れになってしまう。

江戸時代の国学者・本居宣長は、学問を究めるようとする初学者に向けて、『うひ山ぶみ』(全訳注:白石良夫、講談社学術文庫)に学問の方法や心構えなどを著した。こんなことが書いてある。

(…)たいていは、才能のない人でも、怠けずに励みつとめさえすれば、それだけの成果はあがるものである。晩学の人でも、つとめ励めば、意外な成果を出すことがある。(…)であるから、才能がないとか、出発が遅かっただとか、時間がないとか、そういうことでもって、途中でやめてしまってはいけない。

とてもありがたいお言葉だ。どうやれば怠けず励むことができるのかは相変わらずわからないが、『ふひ山ぶみ』を読んでいて気づいたことがある。それは、本居宣長が学問を楽しんでいるということだ。日々の学問も楽しいし、なによりも学問につとめ、成果を出したあとの喜びにはなににも代えがたい幸福感があるのだろう。

「より大きな喜びをいつか」と思うと、日々の取り組み方も変わってくる。サボりたくなったときは、いつか来る「大きな喜び」に想いを馳せて頑張りたいと思う。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第192回 家賃の振り込み(2)

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

先月の末頃だったと思う。「03」の市外局番ではじまる番号からiPhoneに着信があった。着信があって、ワンコールで切れた。間違いない。不動産管理会社の担当Eさんからの電話である。

僕は忘れっぽく、過去に家賃の支払いを失念してしまうことが何度かあった。そのたびにEさんから電話がかかってきた。そのうちEさんから電話がかかってきたら家賃を振り込めばいいという謎のルールができあがり、最終的には着信にすら出なくてよく、ワンコールがあったことを確認したら振り込む手順が完成した。ずっとそうしているので、今や家賃の振り込み期日すら覚えていない。

先月の末ごろは仕事や私用で立て込んでいた。Eさんからの着信があった直後にスマートフォンを使いネットバンキングにアクセスして振り込もうとしたのだが、うっかり残高が不足していた。違う銀行からATMで振り込むか、ネットバンキングに入金するしかない。あとでやろうと思っているうちに案の定すっかり忘れてしまい、思い出したのは次の日、リビングで芋を食べているときだった。

僕は焦ってEさんに電話した。電話口に出たEさんは、少し気怠そうな声で「どうかしましたか?」と僕に訊いた。「いえ、昨日着信があったんですけど……」と僕が言うと、すかさず「わざわざすみません。ワンコールがあったら振り込んでいただければ結構ですので、折り返しは必要ありませんからね」と返した。

僕は珍しく食い下がった。「でも、まだ振り込みが終わってなくて。実はネットバンキングの口座が」と言いかけたところでEさんが遮り、「ワンコールがあったら振り込んでいただければ大丈夫ですよ」とまた言った。そこで僕は、再びあの話を蒸し返してみた。「あのう。出来れば自動引き落としに切り替えたいんですけど、必要書類を送ってもらえますか」。以前、同じ申し出をしたときは、送ってもらったのにもかかわらず、僕のミスで書類をなくしてしまったのだ。Eさんはしばし沈黙し、声を絞るようして言った。

「本当にワンコールがあったら振り込んでいただければ結構なんですけど、あの、なんというか、宮崎さんにとってこの方法はやりにくいでしょうか。ワンコールをされるのがご不快だったでしょうか」

そうですね。せめてスリーコールくらいはしてもらわないと。なんてことは一切思わず、どちらかというと迷惑をかけて恐縮しているのは僕のほうであって、不快もなにもいつも本当にありがたいです、といったような返事をしたら、Eさんは心底安心したような声で、「そうですか。よかったです。では、来月からもワンコールしますので、よろしくお願いします」と言い、電話を切った。僕は何様なのだろうか。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid