モヤモヤの日々

第207回 前髪のこと

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

昨日から、地元・福生市に帰っている。東京の奥の奥の郊外、米軍横田基地があって山田詠美や村上龍の小説の舞台となり、全国の市部で3番目に小さい名実ともに「狭い街」である福生市だ。

とはいっても昨日は赤子(1歳5か月、息子)と愛犬ニコルを妻と一緒に連れて帰るだけで体力を消耗し、実家に帰ったと同時に1時間ほど寝てしまった。赤子を母と会わすのはこれで3度目。同じ東京に住んでいるのに、まだたったの3度目である。コロナ禍がなければもっと頻繁に会わすことができるはずだったとずっと無念に思っていたため、なにはともあれ帰省できてよかった。

今回は金曜日までの短い滞在である。母はこの連載をほぼ毎日チェックしているという。新型コロナウイルスワクチンの副反応でまいっていた時期、どんどん字数が減っていく僕のコラムを読みながら、「この子、ついに文章まで書けなくなってしまったのかしら」と心配していたらしい。40歳手前にもなって頼りない息子で申し訳ない。でも、僕は昔から頼りないのでいつものことである。

母は赤子をとても可愛がってくれている。わずかしか会わせていないのに、赤子も母に懐いている。母は昔からミーハーなところがあって、僕が中・高校生の頃は、X JAPANのYOSHIKIさんと、GLAYのTERUさんが好きだった。僕がいつも前髪を垂らしているのがどうしても気になるらしく、会うたびに前髪を後ろに流そうとしてくる。たしかにYOSHIKIさんもTERUさんも前髪は長いけれど、お顔がみえるよう綺麗にセットしている。しかし、なんとなく自分では前髪を垂らしっぱなしのほうが、しっくりくるのである。だから、母に前髪を後ろに流されないよう、今のところなんとか防御している。

帰省した昨日は、ちょうど甥(小学6年生)の誕生日だったので、近くに住む姉の家に行ってみんなで祝った。事前に姉に訊いておいた「煉獄さんのフィギュア」をプレゼントした。「鬼滅の刃」を2巻の途中までしか読んでいない僕は、煉獄さんがどのような方かよく存じ上げておらず、しかも、フィギュアをおそらく今まで一度も買った経験がない。そんな僕でも可愛い甥のためならばと、正規品をなんとかネットで探し出して購入した。甥はとても喜んでくれた。

今朝は起きたら雨が降っていた。せっかく都会より広い郊外に来たのだから犬に報いたいのだけど、散歩は雨がやんでからになりそうだ。母は朝ごはんを食べているときも、「前髪を後ろに流したほうが素敵なのに」としきりに言ってきた。そういえば、煉獄さんも前髪を後ろに流しているのであった。せめてもの親孝行のために、今日はオールバックしてみようかとふと思った。思っただけで、本当にやるかどうかはわからない。さて、今日はなにをしようか。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第206回 観光地のマグネット(3)

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

少し前から編集担当の吉川浩満さんと一緒に、Twitterのスペース機能を使って「週刊モヤモヤの日々」という音声配信を、毎週末(今のところ)に行っている。そこでわかった事実なのだが、僕がこの連載の「200記念トークライブ」で自慢していた磁力の強いヘミングウェイと、自重に耐えられず割れてしまったチェ・ゲバラのマグネットが、まだ晶文社のスタジオ(会議室)のホワイトボードに貼られたままになっているそうだ。なんという幸運だろうか。

僕は観光地で売っているマグネットを買うのが大好きである。とくに誰にも見向きもされてないようなダサいマグネットに愛着を持っている。キューバのハバナで買った、自重に耐えられずにずり落ちるチェ・ゲバラは僕の親友である。僕がマグネットなら同じく自重に耐えられないタイプだと思うからだ。そんなマグネット収集癖についてこの連載で書いたところ、意外なほど反響があった。言葉だけで成立させることを目指している連載なのでお披露目できていなかったが、トークライブは映像配信だったので、ここぞとばかりに自慢した。デビューしたばかりの黒マスクパールのマスクチェーンをして、さも得意げに紹介したのであった。

しかし、僕の性格上、想定できる範囲のミスなのだけど、そのマグネットたちを晶文社に置いたまま忘れてきてしまったのである。そのことをトークライブの翌日、連載に書いて5日間。何度も吉川さんにマグネットがきちんと回収されたのか訊くタイミングがあったものの、なぜかメッセージしたり、話したりするうちに、マグネットの安否について訊くことを忘れてしまっていた。まだ貼られたままになっていることを知ったのは、週末のスペースでのことだった。

トークライブ当日は、チェ・ゲバラなどのほかに、友人が冗談で僕の家の冷蔵庫に貼って帰った「ルート66」のマグネットを持っていった。僕はそんなジャック・ケルアックみたいな場所に行ったことないし、これからも行くことはない。ところが吉川さんはバイクが好きで、いつか「ルート66」を走ってみたいそうなのである。だから配信中に、そのマグネットを吉川さんにあげた。

配信を視聴してくれた読者の方々が、それを書籍化のための「公開ワイロ」だとネタにしてくれた。たった2ドルのマグネットで本を出版できるなら、今ごろ書店に僕の棚ができている。だが、「公開ワイロ」という表現は微妙に当たっていた。利益供与を狙ったのではなく、マグネットが吉川さんの家の冷蔵庫に貼られることによって僕の存在を常に頭の片隅に散らつかせるという、「サブリミナル効果」みたいなものを企てていたからである。きっと効果があるに違いない。

そんなマグネットたち、しかも吉川さんにあげた「ルート66」まで、まだ晶文社の会議室にあるホワイトボードに貼られたままだというのだ。最初は他のスタッフの方にゴミだと間違われて捨てられるのではと心配していたのだが、よくよく考えてみればこんな素晴らしいことはない。晶文社で会議が行われるたびに、あの間抜けなマグネットたちが複数の人の目に留まるからである。他の編集者も営業の方も、あのマグネットたちを見る。真剣な会議の場で、磁力の強いヘミングウェイが睨みをきかす。「宮崎智之を忘れてはいけないぞ」と眼力で訴えかける。

もうそろそろ効果が出てきてもいい頃だと思うのだけど、なかなか書籍化決定の吉報が届かない。それにしても自重に耐えられずヘミングウェイの上に重ねるかたちで貼っておいたチェ・ゲバラは無事なのだろうか。すでに4分の1が欠けてしまっているのに、戻って来る頃には全体の3分の1くらいしか形状を保てていないかもしれない。見事、書籍化を勝ち取り、家に帰還した際にはチェをいたわってあげたい。日本円にしておそらく100円以下。とても偉いマグネットである。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid