モヤモヤの日々

第53回 10年前

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

10年前の今日、東日本大震災が発生した。地震発生時、僕は当時勤めていた編集プロダクションにいた。のちにビルのテナントに移転するのだが、そのときはマンションの一室だった。打ち合わせのために六本木まで行く準備をしている途中に、大きな揺れに見舞われた。

生まれてはじめて経験する激しい揺れだった。僕と事務所にいた同僚2人は、すぐに机の下にもぐり込んだ。地鳴りも聞こえ恐ろしかった。揺れている時間が延々と続くかと思うくらい長く感じた。揺れがおさまった頃、新潟県中越地震を経験したひとりの同僚が、「建物の外に出ましょう」と呼びかけた。僕ともうひとりの同僚は指示に従って階段を降りた。

外は建物から避難してきた人で騒然としていた。近くにある雑貨屋の商品が床に散らばっているのが見えた。スマートフォンでニュースをチェックすると、どうやら震源は東北らしい。こんなにも揺れたのに、関東の地震ではないなんてどういうことだろう、とゾッとした。

にもかかわらず、危機感が薄かった僕は、財布を事務所に忘れてきたことに気づいて取りに帰ると言い出した。同僚から「まだ、やめておいたほうがいい」と忠告されたのに、建物の中に戻ってしまった。案の定、部屋で財布を探している間に、もう一度、強い揺れがきた。

そのときは自転車で事務所まで通っていたため、帰宅難民にならずにすんだ。しかし、環状七号線や井の頭通りにクルマや人の列が連なっている光景を、いまだに忘れることができない。そのあと起こったことも、テレビで見た被災地の凄惨な状況も忘れることができない。

「10年ひと昔」と言うが、10年前の今日のことを、つい最近の出来事のように感じる。「もう10年も経ったのか」という思いがどちらかといえば強い。まだ被災地は復興していないし、原発事故の問題も残っている。「ひと昔」という実感を得るには、傷跡がまだ生々しい。

そして現在は、新型コロナウイルスの感染が広がり、新たな課題が出てきている。つい先日、東京でも大きな揺れを感じる地震があった。忘れないでいたつもりだったものが、実は徐々に記憶が薄れてきているのに、そのとき気がついた。「10年ひと昔」と言うには、最近の出来事のようだと書いたが、実際には当時よりも防災意識が乏しくなっている自分がいた。

そして10年という年月は人の環境を変えるもので、今では0歳児の息子や愛犬、東京の郊外で一人暮らしする母などのことも考えなければいけない。仮に避難所生活になった場合の感染対策もきちんと検討しておくべきだ。僕に出来ることは10年前にあった出来事を忘れないこと、その経験や教訓を未来に生かしていくこと、死者を悼むことである。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第52回 高級なドライヤー

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

先週公開した愛犬ニコルを洗った日の回を読んでいたら、またモヤモヤを思い出してしまった。我が家には高級なドライヤーがあることである。そのドライヤーでニコルを乾かしたのだ。

誕生日にささやかなプレゼントを贈り合う風習が、一応、僕たち夫婦にはあるのだが、お互い好みが違うのだからと、相手になにがほしいか聞くことになっている。しかし、ふたりとも優柔不断なので、これがなかなか決まらない。そんなこんなで2年間経ってしまった時期があった。計4つ、クリスマスも数に入れるなら6つのプレゼント案が宙に浮いてしまっている。さすがにそろそろ精算したほうがいいだろうと、僕たち夫婦は話し合い、ふたりで使えるものを1つ買うことに決めた。

ここまで粘ったんだから妥協はしたくない。どうせならすべて合算して、納得いくいいものを買おう。そう意気込んで悩むこと実に3か月、妻の案として浮上したのが高級なドライヤーである。なるほど、たしかに僕も髪の毛が気になり出したところである。毎日使う製品なのもなおよい。よしそれにしよう。そして、友人の美容師に聞くなどさらにいろいろ調べ、ふたりが納得して選んだドライヤーは、なんと57200円だった。一度決めたら止まらない僕も、さすがに躊躇する値段だった。

でも、よくよく考えてみよう。仮にスルーしたプレゼントが6回分だと計算するなら、ひとつあたり9000円で5万4000円。あとの3200円でドライヤーを買うのだと思えば、むしろ慎ましくすら感じてくるから不思議だ。結婚記念日だって、なにもプレゼントがなかったから、8つ分のプレゼントが保留になっていると思えば、ひとつあたり約7000円である。それに愛犬ニコル、今となっては赤子もいるではないか。そう計算すると、とても費用対効果のいい買い物である気がしてきた。僕と妻は、普段は倹約してここぞという時にお金を使う「一点豪華主義」の思想が共通している。

それで、実際に効果はあった。と思う。いや確実に髪のまとまりがよくなった気がする。だが、このレベルの製品までいくと、ドカーンとすぐに効果が出るというよりは、ずっとこつこつ続けることによって、徐々にだが着実に効果が実感されるものなのだ。だからいけないと言っているわけではなく、ドカーンという感じではなかったなと思ってしまっただけである。着実に効果が出ているなら失礼な限りだが、貧乏性の僕としては、ドカーンとした値段の割には、ドカーンという感じではなかったと思ってしまったのだ。しかし、そのことが、ドカーンとしていないことがむしろ、高級なドライヤーの信頼度を僕の中で高めている。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid