モヤモヤの日々

第43回 King Gnuの新井さん

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

この連載を読み返していたら、重大なモヤモヤを思い出してしまった。それは、僕のプロフィールに「東京都出身」と書かれている(というか、自分で書いたのだが)ことである。

なるほど、たしかに東京都出身である。だが、この連載で何度も述べているとおり、僕は東京の西の果ての奥地、東京都福生市出身だ。ごく稀に、東京には23区しかないと勘違いしている人がいるらしいが、そんなことはない。むしろ市町村部(三多摩と呼んだりする)のほうが圧倒的に広い。山手線や23区を基準にして、新宿、渋谷あたりを「西側」と呼ぶ風潮がある。僕からすると片腹痛い。東京は東西に長く、地理的な中心地は国分寺市辺りである。

その国分寺市を、さらにさらに西側に入っていった場所に、僕の出身地である東京都福生市はある。東京ドームがある文京区よりも埼玉県所沢市に近いため、子どもの頃は巨人ファンより西武ファンのほうが多かった。子どもがかぶる野球帽も、西武の青色が主流だった。市内の道路標識には、東側に向いた矢印とともに「東京」と書かれていた。「そうか。ここは東京ではないのか」と幼心に思っていたものだ。実際に、福生の人は都心に行くことを、「東京に行く」とよく表現する。僕が大学生のとき、家族ごと駅前のマンションに引っ越すまで住んでいた実家の前では、蛍が儚く光って飛んでいた。

とはいえ、ちょっと話がややこしいのが、福生は東京の田舎ではあるものの、米軍横田基地があり、都心とはまた違った独特の音楽や文学などのカルチャーがあることだ。都心の大学に入学しサークルに入ったとき、「東京都出身です」と自己紹介すると、よく「東京のどこ?」と聞かれることがあった。どうせ知らないだろうと思って、「立川より奥」とか「八王子のほう」とか言って誤魔化していたが、同じ文学部の学生だけは違った。「あ、そこって村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の舞台になった場所でしょう?」と言ってもらえると、うれしい気持ちになった。その彼は、「ふっさ」を「ふくお」と読み違えていたらしいが。

そんなわけで、僕は自分を東京都出身だとすることに、ずっと違和感を抱いていた。福生出身の有名人が公式プロフィールに「東京都出身」と記しているのを発見し、「なんで福生市まで入れないんだろう」と憤っていたものだ。だから、物書きをはじめた当初の頃は、プロフィールの提出を求められるたびに、「東京都福生市出身」と書いていた。しかし、「福生市」の文字が、それはもうすぐ削られる。たしかに、地元に関係ある仕事をするときでない限り、「福生市」は無駄な情報だ。東京でも知らない人がいるくらいだから、全国の人にはなおさら関係ない。考えてみれば、逆に「大阪府箕面市出身」と書かれても、僕にはぴんとこない。

月日が経るに従い、僕もいい加減に諦めて、プロフィールに「東京都出身」とだけ書くようになっていった。しかし、ある日、地元から「King Gnuのベーシスト・新井和輝さんは福生市出身である」という情報がもたらされた。にわかに信じがたい。あの飛ぶ鳥を落とす勢いの人気バンドのベーシストが福生だとは。恐る恐るインターネットで検索してみると、その情報は事実だった。しかも、プロフィールにきちんと「福生市出身」と書いてあったのだ。

新井さん……。なんて立派な人なんだ。一度だけ観に行ったライブのMCでたった一言しか話さなかった新井さん。いつまでも地元愛を忘れないでいる新井さん。僕も見習ってこの連載のプロフィールを「東京都福生市」に直してもらおうかと思ったが、せっかく新井さんほど有名で実力ある人が福生を背負ってくれているのだから、余計なことをして足を引っ張らないよう、僕は静かにしておきたい。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第42回 拝啓、週刊誌様

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

つい先日のこと。僕はある原稿の資料として、最新号の週刊新潮に掲載されている記事を読みたかった。コンビニはマンションと目と鼻の先だし、そこで売っていなくても徒歩10分くらいの場所に書店がある。複数の原稿を抱えていたため、まだいいや、まだいいやと思っているうちにその原稿の締め切り日が迫ってきて、いつも通り慌てはじめた。

コンビニはすぐだが、もう売っていない可能性がある。1分1秒でも時間が惜しいと考えた僕は、「そうだ。こういうときにこそ!」と、AmazonのKindle版(電子書籍)で購入することにした。しかし、購入したKindle版にはお目立ての記事がない。なぜだろう。目次に戻っても見つからないし、全ページ(電子で)めくってみてもやはりない。こんな理不尽なことがあるだろうか、と思いながら表紙に戻るとそれは週刊文春だった。

しまった! ついうっかりミスをしてしまった。まあ焦っていたのだから仕方ない。週刊文春も仕事が終わったら読むだろう。気を取り直して週刊新潮のKindle版を購入しようとしたところ、週刊新潮にはKindle版がないことがわかった。なるほど。そうなのか。

ならば買いに行くしかないと決心したその瞬間、妻が僕の仕事部屋のドアをノックし、「ちょっとコンビニに行ってくるね」と伝えにきた。なんと神がかったタイミングだろうか。僕は「週刊新潮があったら買ってきて」とお願いし、「はーい」と言って妻は部屋を出た。

果たして、妻が好物のブルガリアヨーグルトと一緒に買ってきてくれたのは週刊文春だった。結局、そのあとすぐ僕がエレベーター(焦っている僕には、実はこれが面倒くさいのだ)を降りてコンビニに行き、無事に最新号の週刊新潮を購入できたのであった。

それにしても、恐るべき週刊文春。週刊新潮を買おうとしても、なぜか週刊文春を買ってしまう。週刊新潮だって、超メジャー週刊誌である。発行部数こそ下回っているものの、歴史は週刊文春よりも古い。それほど週刊文春に勢いがあるということだろうか。

しかし、これは僕ら夫婦が間抜けなだけで、週刊新潮さんはまったく悪くない。こんなコラムまで書いて失礼である。読みたかった記事はとても参考になった。最終的にはしっかり購入したので、ご無礼をお許しいただきたい。そして週刊文春さんには、同じ号のKindle版と紙版の2種類を購入したということをお伝えしたい。さらに、もしかしたらご存知ないもしれないが、僕は週刊新潮さん、週刊文春さんに限らず、日本中で発行されているすべての週刊誌が大好きであり、かつ昨年12月に新刊を発売したばかりなのだ。

新刊の書評でも掲載された日には、もう何冊購入してしまうのか自分でも見当がつかない。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid