モヤモヤの日々

第39回 子どもの頃の夢

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

子どもの頃に描いた将来の夢を覚えているだろうか。僕は昔から本を読んだり、文章を書いたりすることが好きたったので、「文章を書く人になりたい」なんて思っていた記憶がある。そうならば夢が叶っていると考えられなくもない。しかし、人間は、特に僕は記憶を改ざんしてしまう生き物だ。改ざんとまでいかなくても、後づけで都合のいいように記憶を補完している可能性もある。だいいち、文章を書いてお金をもらい生活をしていくなんて日々は、来月には儚く霧散しているかもしれない。

では、まったく改ざんも後づけもない、子どもの頃の僕の夢はなんだったのだろうか。日々の記憶すら曖昧なのに思い出せるはずがないと諦めていたのだけど、ふと、「あ、そういえばプロ野球選手になりたいと思っていた時期があったな」と、嘘偽りのない記憶が蘇ってきた。地域のチームや部活動で習ったことはないものの、子どもの頃は友達とよく広場で野球をして遊んでいた。とくに明確な理由はないけど、なんとなく投手になりたいと思っていた。あとは、漫画『ドラゴンボール』の主人公・孫悟空にもなりたかった。肩肘張らず思い出してみれば、子どもの頃の夢なんてそんなものである。

もちろん、プロ野球選手にも、孫悟空にもなれなかった。しかし、子どもの頃の夢について考えているうちに、「なる」ということ以外にも、「する」という意味での夢もあったはずだという、当たり前のことに気がついた。そして僕は大切なことを思い出してしまった。なんで今まで忘れていたのだろうか。僕は大人になったら、ヤクルトを何本も買ってマグカップに注ぎ一気飲みしたいと思っていた。さらに、ケンタッキーフライドチキンを際限なくこれでもかってくらい食べてみたいと夢見ていたのだ。

これは、すぐに叶えることができるのではないかと、目から鱗が落ちる思いがした。しかし、よくよく考えれば、ヤクルトを一気飲みするとお腹によくなさそうだし、油物が苦手になった今では、ケンタッキーフライドチキンはひとつかふたつ食べられれば十分である。それ以上、食べたら胃もたれしてしまいそうだ。そして、もうひとつ思い出したのは、僕は孫悟空になりたかったわけではなく、かめはめ波を打ちたかったのだった。仮に夢が叶ったとしても、今ではどこに打てばいいのか見当もつかない。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第38回 犬大好き

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

日本語は難しい。文章を書くことが仕事の僕でも、正しい日本語を使えていない場合がある。だから、日々精進する必要があるのだけど、コラムやエッセイでは、たとえば文法的に間違っているとわかっていても、あえて「表現」としてそのままにする判断もあり得るので、話が余計にややこしい。

また、「正しい日本語」とは別の問題として、「これ、どうすればいいんだろう?」と運用に悩むことがある。よく悩むのが、「歌を歌う」という表現。なんだかすごくモヤモヤする。ニュースサイトを調べてみると、朝日新聞は「うたを歌う」と表記していた。なるほど。最近はまったく開かなくなり、部屋のどこに埋没しているのかもわからない『記者ハンドブック』(共同通信)には、そう指定されているのかもしれない。しかし、100年以上の伝統がある、ある地方紙で「主題歌を歌う歌手」という表記を見つけてしまった。間違いではないのだろうが、歌だらけである。似たような悩みに「一言で言う」がある。

この手のモヤモヤを挙げ始めるとキリがないし、どうしても納得できないなら類語辞典を引いて表現を変えることもできる。それよりも、僕がこの場で強く問いたいのは、「大」と「犬」が似すぎている問題である。漢字で表記するとそっくりすぎて、僕は昔から、この大問題にずっと頭を悩ませている。

まず、僕は「大好き」を「犬好き」と読み間違える。それは僕が犬を好きだからで、人によっては「犬好き」を「大好き」と勘違いする場合もあるだろう。一番厄介なのは、「犬大好き」である。助詞の「が」や読点を用いれば済む問題なのだが、たとえそうだとしてもややこしい。「犬が大好き」「大が犬好き」「犬、大好き」「大、犬好き」。こう並べてみると、なんだか妙な気持ちになってきやしないだろうか。

「太い犬が大好き」「大好きな犬が太い」に至っては、目がチカチカして直視すらできない。「いぬ」や「イヌ」と表記すればいいのでは? と思った人に問いたいのは、なぜ犬が譲歩しなければならないのか、ということだ。譲歩するのは、「大」や「太」のほうではないのか。「犬だい好き」にしてはどうだろうか。なんか駄目そうである。犬大好きな贔屓目で見ても駄目そうなので、僕は悔しくて仕方ない。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid