モヤモヤの日々

第41回 赤子の将来

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

うちには生後9か月になる赤子がいる。赤子と過ごしていると、「しっかりしなければな」と思う。こんな僕でも気持ちが引き締まる。ちなみに息子である。まん丸としている。

とは言っても、「この子の人生を背負って」などという気負いではない。それもあるのだが、ここで書きたいのはもう少し基礎的な振る舞いのことだ。つい最近まで、「あう」「まんま」と声を発し、泣いているか飲んでいるか寝ているかしかしていなかった息子も、いつのまにか座れるようになり、つかまり立ちするようになり、意思のようなものが芽生えてきた。遊びを覚えてきた。だから赤子用のオモチャや絵本を使い、一緒に遊んでいる。息子が眠たそうな気配を見せはじめたら、ベッドに連れて行って寝かしつける。

相手が赤子だとはいえ、けっこう疲れる。僕の体力がないせいもあるが、ぐったりする。しかし、僕はここで思うのだ。ベッドに連れて行く前にオモチャや絵本を片付けなければいけない、と。息子はまだ赤子だからできないけど、いつかは自分で片付けることを教えなければならない時期が来るだろう。だから、「オモチャは、元の場所に戻すんだよ」などと言いながら、片付ける様子を見せたあとにベッドに連れて行くことにしている。

一方、僕の仕事部屋は本や書類で埋まり、床が見えない状態になっている。たまに本をきちんとまとめて積んだり、書類を整理したりしているのだが、探し物をするたびに元の汚い部屋に戻る。今までの人生で数百回は反省しているものの、なかなかなおらない。そのことを息子は知らない。知られてはならない。そんな僕でも息子と一緒に過ごしていると、「しっかりしなきゃな」と思うのだから不思議である。どういうことなのか。

考えてみれば、これはなにも息子の前だけの現象ではない。たとえば、見渡しのいい1車線道路に信号機と横断歩道がある。いけないとわかっていても、急いでいるときには、ついつい信号が赤でも横断してしまうことがある。しかし、小学生くらいの子どもが近くにいたら、青信号になるまで絶対に渡らない。そういう人は、僕以外にもいるのではないか。真似されたら危ないという理由もあるが、それを言うなら大人だって危ないのだ。なのに、周囲に大人しかいない場合は、お互い牽制し合いながらも誰かひとりが口火を切った瞬間、みんながぞろぞろ渡りだす。ビートたけしの言う「赤信号みんなで渡れば怖くない」である。だが、そのなかにひとりでも子どもがいたら、だいたいは誰も渡らない。

これは本当に不思議な現象だとしみじみと思う。「自分は駄目なやつだが、将来がある赤子や子どもには、そうなってほしくない」と、どこかで考えているのだろうか。少なくとも僕はそう感じる。しかし、それが僕だけではなく、ある程度、普遍性を持った感情だとするならば、前の世代も同じことを考えていたという仮説につきあたる。親の言う「勉強しなさい」ほど、むなしく響くものはない。息子も、いつか同じ道をたどるのだろうか。

ならば、人よりも一層、愚か者な僕がその場を取り繕う立派さを見せたところで、なにになるのかという疑問がわいてくる。むしろ最初から愚かな部分を見せる反面教師の役割を担ったほうが、教育にいいのではないか。そんなことを考えながら息子を凝視していると、視線に気づいたのか僕のほうを振り向いて「あう〜」と叫び、オモチャのマラカスを振り回した。僕は愛犬ニコルに助けを求めたが、犬は丸くなって昼寝をしていた。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第40回 三つ子の魂

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

最近、詩の暗誦を日課にしている。理由はいくつかあるのだが、まず単純に記憶力が鍛えられる。あと、新型コロナウイルスの感染拡大以降、人と話す機会が少なくなったため衰えた表情筋や滑舌を鍛えることができる。丸谷才一のエッセイ「動物園物語」(文春文庫『男もの女もの』収録)によると、英国で教育を受けた吉田健一は、詩の暗誦が定着していない日本の教育について、「ぢやあ大学の文学部で何をするんですか?」と訝しがっていたらしい。機嫌が良くなると英語の詩を諳んじていたという吉田と比べるのはおこがましいのだが、僕も暗唱しているうちに言葉のリズムや呼吸、日本語独特の飛躍などについて、少しずつ考えるようになっていった。なにより、やっていると楽しい気分になる。

小学生の頃、あまりにも勉強しない僕を見て、父もさすがに心配したのだろう。ほとんどボーとして過ごしている僕が、読書と文章を書くことにはかろうじて興味を持っているようだと発見した父は、『朝日小学生新聞』に作文か詩を投稿する教育を思いついた。詩をいくつか書き、何篇か掲載された。「こいつは詩が好きだ。もうこれしかない!」と思った父は、自分が愛読していた中原中也の詩を読み聞かせてくれるようになった。そのうち僕にも朗読させ、暗誦にもチャレンジさせるようになっていった。

だから僕にとっての文学は、「父が一緒に遊んでくれる楽しいもの」だった。父が亡くなった今でも、そういう憧憬を抱いている。そんなこともあり、ふと思いついて暗誦を日課にしようと思ったとき、最初に手に取ったのは、やはり中原中也の詩集だった。助詞などの細かい記憶違いはあったものの、不思議なことに「サーカス」や「湖上」「朝の歌」といった、何度も暗誦していた詩は四十歳手前になった今でも覚えていた。「三つ子の魂百まで」というが、こんなに愚鈍な僕でも身についているものはあった。

ひとつだけ、もう時効だと思うので告白すると、僕が『朝日小学生新聞』に詩を投稿していたのは、単純に詩のほうが作文より字数が少なかったからである。たしか、紙幅を稼ぐためにやたらと改行した作文を、父が詩と勘違いして投稿したこともあったような。もちろん今は、「詩のほうが簡単」などとは、一ミリも思っていない。しかし、当時の僕は本当に愚かで怠け者だったのだ。まあ、父は僕の1万倍はお人好しだったから、「詩を好きになってくれたなら、結果オーライさ」と笑ってくれているに違いない。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid