モヤモヤの日々

第65回 コンプレックス

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

僕は、自分の「自己認識」にあまり自信がない。39年間、一応、自分という存在と付き合いながら生きてきたのだから、「自分とはこういう人間だ」とある程度は説明できるかもしれないが、その認識がことごとく間違っているような気がしてならない。自分がわからないのだ。

フリーランスになる前、東京・下北沢にある編集プロダクションに勤めていた。どういう流れだったか忘れたけど、仕事の手を止めてスタッフ同士でお喋りしているときに、「コンプレックス」の話になった。どんな人でも、心のどこかで劣等感を抱えている。だから、話はとても盛り上がった。意外な人が、意外な劣等感を覚えているものである。みんなが明け透けに話してくれていたので、僕もずっと人に言っていなかった劣等感を打ち明ける気になった。そして、「実は僕、つり目なのが嫌で自分の顔が好きになれないんだよね」と告白した。

一瞬、時が止まったあと、大阪出身でツッコミが上手い後輩の山本莉会さんが怪訝な表情をし、「それ、冗談で言っていますよね?」と訊いてきた。冗談などではなかった。とくに自分の風貌が気になる思春期には、「つり目だから表情が固く見えるんだよな」などと真剣に悩んでいた。別に、つり目が悪いわけではない。ただ単に自己イメージとして、自分がつり目であることに違和感があったのだ。つり目で格好いい人はたくさんいる。しかし、僕のつり目は、どうもしっくりきていない。できれば、たれ目で生まれたかった。そう思っていた。

僕の真意をはかりかねていたのか、他のスタッフは黙っていた。そんな沈黙を切り裂くように、「宮崎さんは、どう見てもたれ目ですよ」と、山本さんが言った。「歳を重ねるごとに、目尻が少しだけ下がってきた気はする」と答えたが、当時のスタッフの中で一番、仕事ができると評判だった山本さんは引き下がらなかった。「いや、そういうレベルではなく、完全にたれ目ですよ」。目尻が下がってきたなどというレベルではない。というかそれ以上、下がりそうにもない。宮崎さんは出会ったときも、SNSで昔の写真を見てもずっとたれ目である、と。

そこにいた他のスタッフも、「宮崎たれ目説」に満場一致で同意した。宮崎がまたくだらないジョークを言い出したのかと思っているスタッフもいたようだった。家に帰ったあと、鏡で自分の顔をまじまじと見てみた。どう見ても、たれ目だった。まごうことなき、たれ目だった。僕はいったい何に対して悩んでいたのだろう。誰がどう見てもたれ目なのに、30年近くずっと自分がつり目であることに悩んでいた。本当に僕は、間抜けで愚鈍な人間である。

その後も「いや、やっぱりつり目なんじゃないか」と疑い、何度か別の人に訊いてみたものの、やっぱり答えは「たれ目」だった。僕が編集プロダクションを辞めるとき、送別会で山本さんが「すぐに読んでください」と言って、アルコール依存症の壮絶な体験が綴られた故・鴨志田穣さんの著作『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』をプレゼントしてくれた。その2か月後、僕はアルコール性の急性すい炎で入院した。さらに約3年後、同じ病気で入院し、おまけにアルコール依存症とも診断された。そのときになってようやく、ずっと本棚に差して放置していた『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』を初めて読んだ。なんでもっと早く読まなかったのだろうと後悔した。今は断酒して5年近くになる。仕事ができる人は、やっぱり違う。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第64回 桜ばな

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

東京は、桜が満開を迎えている。ここ一週間ほどドタバタが続いていた僕は、まだ今年の桜をまともに見ていない。今日は天気がいいから、愛犬ニコルと桜並木のある目黒川沿いを散歩してみようと思う。桜が咲くと、またこの季節がやってきたのかと、毎年のように感じる。

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり(岡本かの子、歌集『欲身』より)

桜を眺めていると、「あと何度、桜の咲く季節を過ごせるだろうか」なんて、妙に感傷的な気分になる瞬間がある。まだ若いとはいえそこそこの年齢になったからそう思うようになったのではなく、16歳くらいの僕も同じことを思っていた。蕾が膨らみ、花が咲き、満開を迎えたと思ったら、あっけなくも儚く散っていく。毎年、繰り返し積み重ねられる満開の桜に対峙したときの気持ちは、自然の美しさと同時に、人間の生の有限さを改めて思い出させる。

だから、引用した岡本かの子の歌を知ったときから、僕も桜を生命(いのち)をかけて眺めることに決めた。仮に、これで最期の桜になっても後悔しないように生命をかけて眺める。

一方、徐々に暖かくなるにつれて膨らみが増し、生命の息吹とともに開花する桜を見ていると明るい気持ちになってくる。厳しい冬が終わり、暖かで朗らかな季節がやってくる。陽気な気持ちになって、外出したくなる。桜を見ながら、日向ぼっこしたくなる。別れと出会いの季節でもある。ちょっと浮き足だった気分になり、たまにはハメを外したくなる。桜はさまざまな感情を人に引き起こす。そういう意味で、桜には名状しがたい危うい魅力がある。

まだ今年は一度も見ていないのに、桜のコラムを堂々と書いている自分がなんとも頼もしい。ちなみに、今年は新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、場所によっては公園の利用制限や、宴会自粛の呼びかけが行われている。他方、人間の想像力は大したものだと思ったのが、オンラインでの花見や、桜の名所をめぐるリモート観光、AR(拡張現実)の技術を使って現実には目の前にない桜をスマートフォン越しで楽しむ企画などが組まれていることだった。やっぱり桜は、危うい花である。人間をどこまで連れて行くのかわかったものではない。そして僕は、オンラインだろうが、ARだろうが桜は桜。生命をかけて眺めるつもりだ。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid