モヤモヤの日々

第141回 本物を見ること

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

東京郊外に住む母が、新型コロナウイルスワクチンの2回目の接種を終えた。2回目を打った翌日に発熱と頭痛があったようだが、それもわずか1日でおさまり、今は元気だという。

同じ東京といっても、母が住む東京都福生市と、僕が住む目黒区とではだいぶ距離がある。たまに冗談で言うことだが、マンションの目の前でタクシーを拾えば品川駅まですぐだし、そこから新幹線に飛び乗ってしまえば新大阪までもすぐである。体感的には新大阪まで行くほうがラクだと思うときがある。父が亡くなり、母は一人暮らし。近くに僕の姉夫婦が住んではいるけど、常に気にしている。母からすると、僕のほうがよっぽど危なっかしく見えているらしい。いずれにしてもまだ油断は禁物だが、高齢の母の接種が終わって一安心だ。

東京都福生市は、僕が育った街でもある。米軍横田基地があり、「基地の街」としてイメージされることが多い。しかし、実は多摩川沿いには自然があふれ、水が豊富な地域が広がっている。僕の父は、姉と僕の教育のため、あえてその地域に家を借りてくれた(僕が実家を出る少し前に、便利な駅前に引っ越した)。幼少期の頃は、それはもう自然そのものだった。

僕は赤子(息子、1歳1か月)が0歳児のときから、絵本の読み聞かせをしている。なぜなら、父が僕にそうしてくれたからだ(父の読み聞かせは、僕が小学校を卒業するまで続き、最後のほう夏目漱石を読んでもらっていた)。読み聞かせをしていていつも残念に思うのが、絵本の中に登場する動物や植物などを、赤子が実際に見たことがないという事実である。

この前、絵本の中に蛍が出てきた。赤子が「あちゃ」と蛍の絵を指差すので、「お尻らへんが光る昆虫だよ。ゲンジボタルとヘイケボタルというのがいてね」と説明しながら、「そうか。赤子はまだ蛍を見たことがないんだな」と、しみじみ思ってしまった。僕が育った福生市の多摩川沿いには、はけの湧水沿いに公園があって、毎年6月頃になると蛍が飛んでいた。

最近、赤子と僕は詩人・西條八十(さいじょう・やそ)作の絵本『ひょうたんとかえる』(殿内真帆・絵、すずき出版)が大好きである。カエルの鳴き声をリズミカルに生かした、シンプルで洗練され、かつ滑稽さと温かみがある素晴らしい絵本なのだけど、赤子はカエルの鳴き声を聞いたことがないどころか、姿形すら見た経験がない。カエルは……、すぐに見せてあげられそうなものだ。どこに行けばいいのだろうか。両生類を扱っているペットショップ?

少なくとも僕が子どもの頃は、多摩川沿いのその地域にはたくさんカエルがいて、季節になると大合唱していた。コロナ以降に生まれた赤子は、ほとんど東京の都心部に閉じ込められている状態である。僕も妻もワクチン接種が終わったら、まずは福生に帰るつもりだ。「カエルを見せに帰る」などと思った人は、どうしようもなく駄目で、でも心が豊かな人である。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第140回 早朝の散歩

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

犬の散歩をしたかった。愛犬ニコル(ノーフォクテリア)は体高が低い、毛がもじゃもじゃした小型犬なので暑さに弱い。この時期になると、散歩はもっぱら早朝か日没前後に行っている。できれば早朝の気持ちいい空気を吸わせて、ゆっくり楽しませてあげたいものである。

早朝に散歩するには朝6時には家を出る必要がある。新型コロナウイルスのワクチン(1回目、ファイザー社製)接種のあと、体調不良が続いていて日常に復帰したばかりの僕にできるだろうか。しかし、僕は犬の散歩をしたかった。なんと今日は朝5時30分に起きたのだ。

僕は起きるなりシャワーをさっと浴びて外着に着替えた。ニコルはまだ寝ぼけていたが、散歩だとわかるとにわかに騒ぎ始めた。体調不良で休んでいた4日間、読書にあまり集中できなかったため、僕はドッグトレーナーが公開しているYouTube動画を視聴していた。散歩の前に騒ぐのはニコルの悪い癖だ。僕は毅然とした態度で無視し、犬が落ち着くのを待った。

外に出るとすでにうっすらと日差しが降り注いでいた。しかし、昼間よりはだいぶ涼しい。念のため、犬の首には保冷剤入りのネックバンドを巻いておいた。案の定、犬は大喜びで駆け出し始めた。これも犬の悪い癖で、落ち着けばリードを引っ張らずにきちんと歩けるのだが、散歩の出だしだけはいつも猛ダッシュして大騒ぎする。僕はYouTubeの先生が教えてくれたとおり、リードを引っ張る犬を無視して立ち止まった。しばらくは引っ張り続けていたものの、次第に落ち着きを取り戻し僕のほうに戻ってきた。僕はご褒美のおやつをあげた。

そのやりとりを3、4回ほど繰り返したあとに、ようやくリードを緩めて散歩することができた。今までも同じようなしつけはやってはいたけど、今後はもっと徹底しようと思った。

駒場東大前に向かって、住宅街を散歩した。朝顔が綺麗だった。パジャマ姿でゴミを出す人、すでに通勤服に身を包み駅までの道を歩いている人、ジョギングしている人。驚くべきことにマスクをしながら、しかも重たそうなリュックを背負って走っている人がいた。大丈夫なのだろうか。僕なら確実に倒れている。というか、もうかなり歩いたので倒れそうである。

だが、ニコルはまだ元気そうだ。駅前の商店街は早朝ということもありシャッターが閉まっている店が多く、「8月22日まで休業します」という張り紙が目についた。誰もいない路地に入ると、ニコルが“すっきり”した。あまりに健康的で大きな“すっきり”だったので、「ニコルがう○ちした! ニコルがう○ちした! あらよっと」と中くらいの声で唄いながら片付けていたら、20代くらいのカップルが後ろを通り過ぎた。なんて微笑ましい朝だろう。

結局、1時間以上みっちり散歩した僕と犬は、自宅のマンションに着いた頃にはへばっていた。保冷剤入りのネックバンドがすっかりぬるくなってしまっていたので、念のためカバンに忍ばせておいた予備の保冷剤を犬の首に当てながらエレベーターに乗り、部屋に戻った。

体調不良がおさまり、新しい朝が来た。僕と犬は1時間半ほど爆睡してしまった。目覚めたとき、「もしや夢では?」と自分の偉さを疑ったが、足が疲れているのでたぶん夢ではない。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid