モヤモヤの日々

第131回 気になる投票所

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

歯が痛かった。ちょっと前から痛みだし、まだいける、まだ大丈夫と思っていたのだが、一昨日の夜に強く痛み出したので、痛み止めの薬を飲んで寝た。翌朝起きて、悶絶しながら日曜日に診察している歯医者に電話をかけた。幸いにも当日に治療してもらうことができた。

そんなこんなで、黄昏時を迎えてしまった。妻が用事で出かける時間になってしまった。東京都議会議員選挙の投票に行かなければならない。赤子(息子、1歳1か月)を見ている任務があったのだが、この際、一緒に連れて行こうと思った。犬には留守番していてもらえばいい。

ふと思った。犬は投票所に入れないのだろうか。「選挙 犬連れ」で検索してみると、横浜市保土ケ谷区のホームページがトップヒットし、「ペットは投票所に入場することはできません。ただし、上下四面すべてが囲まれた容器に収納されている場合は、投票所に持ち込むことができます。盲導犬、介助犬、聴導犬は入場できます」とあった。どうしても気になってしまい、選挙管理委員会にも電話してみたのだが、上記とほぼ同じ回答だった。「ですが、投票所が混雑していたり、アレルギーがある方がいたりする場合は、最終的には現場の判断になります」

なるほど、納得した。投開票の当日に、お手を煩わせてしまった。僕は傘をさし、10キロ以上の赤子を前に吊るして投票所に指定された小学校までのゆるい登り坂を歩いた。小降りとはいえ蒸していて、汗で額が濡れた。選挙ポスターの立て看板があった。赤子が「あちゃ」と指差したため、「このなかから、パパの意見を反映してくれそうな人を選びます」と説明した。

投票所には、スタッフのほかは誰もいなかった。赤子を吊るし、汗をだらだら流しながら入ってきた、左側だけ銀髪(インナー)の僕と、むちむちの赤子。全員がこちらを凝視した。

手をアルコール消毒し、「入場券」を渡した。希望者にはポリ手袋が配布されていたので、「こういうのはなんでもやってみよう」と声を出して箱から勢いよく抜き取ると、3枚目がひらひらと床に落ちた。慌てて拾おうとする僕を、「私がやります」とスタッフが制止した。

鉛筆はすべて消毒済みで、使用後に回収するとのことだった。「密」を避ける対策が取られていたものの、僕と赤子しかいない。記載台の正面の壁には、政党名と候補者名が書いてあり、赤子がそれを「あちゃ」と指差した。「今回は都議選なので候補者名だけ。秋までにある衆院選では比例代表の用紙に政党名を書きます」と教えた。投票箱の前に行き、「ここにさっきの投票用紙を入れます」と言いながら投票して、鉛筆を回収箱に入れた。出口付近で若者たちが子ども用と思しき風船を配っていたのだが、なぜか僕と赤子にはくれなかった。

帰り道でも湿気が気になった。傘がやけに重たく感じた。赤子がいろいろなものを「あちゃ」と指差すので、「これはクルマ」「う〜ん。なにかの植物の葉っぱだね」「これは高級なクルマ」などと教えながら家に帰った。犬は久々のお留守番にもかかわらず呑気に寝ていたようで、よたよたしながら出迎えてくれた。「あちゃ」と指差す赤子に汗だくの僕は「ニコルだよ」と答えた。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第130回 名選手、名監督にあらず

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

育児の分担についてはいろいろとあるが、僕が明確に中心的な立場で行っているものに「寝かしつけ」がある。なぜ寝かしつけなのか。それは、僕が昔から寝つきが悪くて苦労しているからである。寝つきが悪い人の辛さが身にしみてわかり過ぎて、眠れない人のためにつまらない話を深夜に延々とする音声を、インターネット配信していたこともある。「名選手、名監督にあらず」という言葉がある。僕は名選手ではないぶん、寝かしつけへのこだわりが人百倍はある。

赤子(息子、1歳1か月)は一度寝ると深く、夜泣きも少ないほうだと思う。しかし、僕に似てしまったのか、やや寝つきには難がある。僕は赤子がより赤子だった頃から赤子の寝かしつけを担当して(もちろん最初は妻に助けを求めることが多かった)、研究し続けてきた。

まず昼寝の場合は、こちらからあまり働きかけず、ベビーベッドで仰向けにさせ、音を立てずに見守っているのがいい。すぐ寝ない場合は小さな音で音楽をかける。サブスクリプション(Apple Music)で童謡を中心にゆったりとした音楽を選び、曲順にもこだわっている。

今のところ「小さい秋みつけた」から「ドナドナ」で終わる全16曲。大人が歌っているものか、児童合唱団が歌っているものか、アレンジはどのようなものか。自分の耳で聴き、厳選したプレイリストだ。11曲目に井上陽水の「少年時代」を配置したのが、ナイスだと思っている。

夜は、絵本を読み聞かす。赤子が一番好きな絵本はエミリー・メルゴー・ヤコブセン著『よるくまシュッカ』(中村冬美訳、百万年書房)である。先に言っておくと、この絵本は百万年書房の北尾修一さんから発売前にモニターを頼まれ、うちの赤子には向いていると思ったので推薦コメントを寄せた。最近では、赤子に(読み手である僕が)話しかけるシーンや、独自のジェスチャーも加えている。それでも寝ない場合は、安価で購入した天井に映るプラネタリウムをつける。『よるくまシュッカ』が「ほしのもり」などを旅行する内容であるため、物語性を持たせている。それでも駄目だったら、鼻歌でジョン・レノン「Love」をハミングする。同世代にしかわからないと思うけれど、僕は野島伸司脚本のテレビドラマ『世紀末の詩』が好きなのだ。

しかし、それでも寝ない夜がある。夜のほうが難易度が高く苦戦しがちだが、昨夜がまさにそうだった。僕は横になって赤子を抱えた。赤子がどのような姿勢だと寝やすいか、僕は赤子以上に知っている。しかも力を入れずに、赤子の姿勢を固定する技まで会得している。僕はその姿勢でぐずり泣く赤子にあれやこれやと話しかけ、何度もなだめた。一度、赤子の気分を変えるためにリビングをうろうろ歩いて、また寝室に戻った。やや落ち着いてきたものの、なおもぐずる赤子に僕はこう宣言した。「◯◯君が寝られないことなんてあり得ない。なぜなら、◯◯君が寝るまでパパが寝ないからだ」。毅然とした物言いが効いたのか、赤子はその後すぐに寝た。

一連のやりとりを聴いていた妻も、ついでに寝てしまった。まだ大人が寝る時間ではなかった。妻は寝つきが天才的にいい。犬も寝ていた。三流選手は、名監督になれるのか。僕はひとりで起きていた。

 

Back Number

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid