モヤモヤの日々

第125回 未来からの前借り

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

今日は朝9時から「渋谷のラジオ」の番組「渋谷で読書会」に出演した。赤坂の書店「双子のライオン堂」の店主・竹田信弥さんがパーソナリティを務める番組である。作家・編集者の友田とんさんと一緒にゲスト出演し、小説家・佐川恭一さんの作品について大いに語り合った。

新型コロナウイルス感染対策のため、ゲストの友田さんと僕はZoomを使ってリモートで出演した。さて困った。つい一昨日に書いたばかりだが、今、僕の部屋は大量の蔵書と、42個のカラーボックスと、コンテナボックスで埋め尽くされている。ラジオなので映像は流れないが、出演者やスタッフには散らかったカオティックな部屋が見られてしまう。片付けなければいけない。しかし、僕は作品をひとつ取り上げるのにも、その作家の作品すべてに目を通さなければ気が済まないたちなので(もちろん出来る限り)、片付けに手が回るかどうか。

結果、賢明な僕は、昨日の夜の時点で絶対に間に合わないことを確信した。徹夜しても無理である。というか、佐川作品を読むために使う時間が仮になかったとしても、最低3〜4日はかかるだろう。一昨日の時点で気付くべきだったのだ。バーチャル背景を使う手も考えたが、ああいうものはどういう背景を選ぶかでセンスが問われる。僕は大雑把なようで、そういう細かい部分を気にするやつなのだ。収録後、Zoom画像を撮られて公開されるのだから、なおさら気になる。

僕は痛いのと、怒られるのが大嫌いだが、その次くらいにセンスがないと思われるのがどうしても耐えられない。最終的には、放送直前に本とカラーボックスとコンテナを部屋の隅に移動し、Zoomの画面に映る部分だけ綺麗にするという、呆れるほどの対症療法を実行した。

対症療法が「対処療法」でないことを、たった今、調べて知った。そういう勘だけは冴えている。自分の愚かさに自信があるので、いつも使っている言葉でも一度は調べてみるように(なるべく)しているのだ。対症療法も対症療法で乗り切った。これは素晴らしい対症療法だったと自分を誇りに思う。対症療法という言葉で連想するのが、エナジードリンクである。今まさに、355mlの缶が目の前にある。別に悪いものではないけど、これに頼り過ぎるのも対症療法に似ている。未来から何かを前借りしているような背徳感が漂っている。

せめて少しは体に気を使おうと無糖にしているのだが意味があるのだろうか。健康を取り戻すため、日本酒のワンカップでビタミン剤を飲んでいた時代を思い出す。今は断酒しているが、エナジードリンクも一日何本も飲んだり、毎日連続で飲んだりすることは避けたい。

前借りとはつまり負債を抱えることである。散らかったものを部屋の隅に寄せ過ぎて、カラーボックスが天井まで到達している。ドアの取っ手の逆側4分の1が、バリケードで塞がれている。僕は部屋からどうやって出ればいいのか。前借りした時間を利子付きで返すために時間を使う。僕の人生は、そんな時間で溢れている。どうにかならないものかと思いながら、エナジードリンクを一気飲みして気合を入れた。これから僕は部屋を脱出し、妻と赤子と犬が待つリビングをひとり目指すのだ。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第124回 赤子の躍進

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

赤子(息子、1歳1か月)が立った。これまで長い間、ずり這いするか、掴まり立ちするかだけだったが、最近になって掴まり立ちでの伝い歩きが頻繁になり、たまに掴む椅子や机や壁を渡る際、完全に両手が離れている瞬間があった。そして昨夜、ついにしゃがんだ体勢からふたつの足で大地(床)を踏みしめた。のんびりめに成長していた赤子が躍進したのである。

昨夜、僕は風呂からあがり、タオルで体を拭いていた。洗面所にあるはずのパジャマを寝室に置き忘れて来たことに気がついた。下着を履いて肩からタオルを羽織り、リビングを通って寝室に向かおうとした。リビングのドアを開けると、赤子がいた。ハイハイのような格好をしてお尻を突き出し、産まれたての子鹿みたいにぷるぷると震えていた。まさかこれは……。

「立った!」。僕は思わず絶叫した。リビングのテーブルでくつろいでいた妻は、必死の形相で駆け寄り、スマートフォンを構えた。赤子の人生史上に残る決定的な瞬間。妻の両親と僕の母とは、専用のアプリを使って赤子の画像や動画を共有していた。コロナ以後に産まれたので、まだ十分に会わせてあげられていない。このチャンスを逃してはならないと、妻は考えたのだろう。

しかし、赤子はすぐに床に手をつき、元の体勢に戻ってしまった。「ああ……」と、妻と僕はため息をついた、その瞬間、再び赤子が子鹿になり、両足で立ち上がった。「立った!」。妻は絶叫し、慌ててスマートフォンを構えた。「立った。立ち上がったぞ!」と、僕も奇声をあげた。

そのとき、重大な事実に気がついた。僕はパンツ一丁だったのである。妻が撮影している映像から逃れるべく、僕は高校生ぶりに反復横飛びした。愛犬ニコルがキッチンに入るのを防ぐために設置された柵にぶち当たったが、そんなことはどうでもよかった。ニコルは音に驚き、ハウスから顔を覗かせていた。赤子を後ろから撮影していた妻は、スマートフォンを構えたまま赤子の正面に回り込んだ。僕はその動きを避けるように、また反復横飛びをした。「ワゥッ」。いつもは吠えないニコルが短く吠えた。

ほんの一瞬の出来事だった。しかし、たしかに赤子は立ったのである。妻とパンツ一丁は、赤子を抱きしめて労った。妻は撮影した動画を早速、アプリで共有した。すぐに妻と僕の母からコメントが付き、お祝いムードで盛り上がっていた。動画をよくよく観てみると、最後の0.5秒くらい、赤子が立った体勢からしゃがみ、ずり這いで彼方へと突進していく場面の隅に、僕の青白い脛(すね)が映り込んでいた。

むろんそんなことはどうでもよく、僕以外は気づいてさえいなかった。躍進した赤子はすでに眠っていた。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid