モヤモヤの日々

第85回 人間は弱い

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

吉田健一は、随筆「わが人生処方」(『わが人生処方』収録)で、太平洋戦争末期、横須賀の海兵団に召集されたときのエピソードを語っている。戦況が思わしくないなか、空襲による延焼を防ぐため、衣類などの入った雑嚢を兵舎の外に運び出す仕事が、毎朝、課せられていた。400人ぶんの雑嚢が毎朝外に積まれ、夕方には兵舎に戻された。問題は、自分の雑嚢を自分で運び出すとは限らず、官給品も入った雑嚢をなくしたり、取り間違ったりすれば面倒な事態になることだ。

ところが、吉田は誰がどこに運んだかわからない自分の雑嚢を、いつもすぐどこかの山の一角に見つけることができたと述懐している。不思議な現象である。吉田が自分の雑嚢を探すと、いつも目につくところにあった。その体験を繰り返しているうちに、「それがきつとさうなつてゐるのだらうという自信が出て来て、何かその為に生きて行く上で足掛かりが出来た」というのである。

不思議な現象ではあるのだが、僕には吉田の気持ちがわかるような気がする。慣れない場所や環境、変化の激しい生活と時代。そういうものに囲まれると、僕はしばしば自分を見失う。そんなとき、どんな些細なものであったとしても、自分の支えとなる、自分が自分であることを確認するために打ち込まれた杭(くい)のようなものがあれば、なにかの足掛かりを得た心持ちになる。

現在、誰もがいじらしく持っていたそういった感覚が、どんどん崩れ去っていってしまっている。さまざまなものを失い、さまざまな変更が余儀なくされてきた。多くのかけがえのない命が失われ、経済的にも精神的にも圧迫されている。人間は弱い。脆くて壊れやすく、人生はままならない。不確かで不安定で、常に完璧な理性を発揮することもできない。もちろん個人差もあるだろうが、実際には弱々しい「いじらしさ」によって、自分が自分であることを確かめながら生きている。

少なくとも僕はそうだ。これから社会がどうなっていってしまうのか、前途を考えると茫洋とする。だから、ものすごくおこがましくはあるが、この平日、毎日17時公開の連載を続けていくモチベーションがいつになく高まっている。もともと高まってろよって話だが、いつになく高まっている。第一義的には自分のためである。でも、もしかしたら誰かにとっても「杭」のような存在に、この連載がなれたならうれしい。今日も犬が可愛くて、とくに愛犬ニコルが一番である。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid

モヤモヤの日々

第84回 ダンゴムシを見つける達人

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

今日は早朝から、赤坂の書店「双子のライオン堂」の店主・竹田信弥さんがパーソナリティーを務める「渋谷のラジオ」の番組「渋谷で読書会」に出演した。番組にはコーナーがたくさんあるのだけど、僕が出演する回は「作家の◯◯について語りませんか?」と企画を持ち込むケースが多いので、事前の打ち合わせで今回はゆるくフリートークしようということになっていた。佐川恭一さんの短編集『ダムヤーク』と沙界夜さんの詩集『君の見ているものが僕に少しも見えなくても』(以上、RANGAI文庫)を取り上げたかったが、もう少し準備してからにすることになった。

放送開始10分前の朝8時50分にスタジオの前に着いた。まだ酒に溺れていた時代から「時間を守る」にはこだわりがあった僕だが、なぜか竹田さんの「渋谷で読書会」だけはいつも開始30秒前くらいに着くか、1分ほど遅刻してオープニングトーク中にスタジオ入りするのが恒例になっていた。渋谷という家から歩いて行ける近さと、竹田さんの寛容な包容力に安心してか、いつもちょっとだけ到着時間の計算を誤ってしまう。スタッフさんもネタにし、「今日の宮崎さんは間に合うのか」などとツイッターで盛り上げてくれていたものの、竹田さん含め全員年下である。そんな状態にもかかわらず直らなかったのに、今日に限って10分も前に着いてしまった。竹田さんも驚いていた。なんとも不吉な空気がスタジオに流れていた。

さて、フリートークとはなんだろうか。せっかく早く着いたのに、その定義について議論することなく番組は始まった。しかし、やってみればなんとかなるもので、「最近、気がついたんですけど、正宗白鳥ってめっちゃ文章が上手いですよね」と語る僕に、「『ビートルズは歌が上手い』みたいな感想ですね」と竹田さんがにこやかに応えたり、昨日で83回目を迎えたこの連載の話題になったため、「これまで83回も連続で約束を守ったことがなかったので、とてもうれしいです」としっかりした、適切なコメントを返したり。番組は順調に進んでいった。

多田洋一さんが発行する文芸創作誌「ウィッチンケア」11号に僕が寄稿した掌編創作「五月の二週目の日曜日の午後」の話になった。5月は、僕が一年で一番好きな季節である。「5月ってすごく空気が澄んでいるじゃないですか。あと、花や草木が芽吹く季節でもありますよね。とくに、昨年の緊急事態宣言下はほとんど家から出ていなかったので、散歩で外出したときに改めて、『5月って、なんて美しい季節なんだろう』と強く感じました。ほら、ダンゴムシって、子どものときにあれだけ見ていたのに、大人になったら絶滅したんじゃないかと思うくらい見かけませんよね。でも実際はそんなことはないわけで。そんなふうに大人になってからは見失ってしまっていた5月の美しさに、ハッと気がついたんです」。竹田さんは答えた。「5月は僕の誕生月でもありますよね。あと、僕は今でもダンゴムシをよく見かけます」

竹田さんは5月生まれで、ダンゴムシを見つけるのが上手い。それを聞いた瞬間、僕の目は確かに輝いていた。僕が知る限り、ダンゴムシを見つけるのが上手い人に、悪い人はいない。もし竹田さんが悪い人だったら、記念すべき第一号である。だから、本当にフリーにトークして帰っていっただけの僕を、きっとまた番組に呼んでくれるに違いないと固く信じている。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid